多良城は西高木家陣屋跡で、牧田川と加龍谷川に囲まれた高台に位置して いる。特に西側と北側は、谷川に向けた断崖となっていて自然要害の地と なっている。 陣屋の周囲には石垣が築かれているが特に埋門付近の石垣が見事に残って いる。石垣はごぼう石で上に行くほど反ってオーバーハングしていて簡単 には登れないような工夫がされている。(これは、私が小さい頃忍者ごっ ことしてこの石垣を良く登った時の感想で機能的なものか構造的なものか ちょっと詳細は調べていない) 丁度我が家の前が埋門で小さな頃はこの埋門の上に大きな松の木が植わっ ていた。 陣屋の東側は旧伊勢街道が走っている。高木家は現存する西高木家のほか 東高木家、北高木家があり高木三家と呼ばれていた。 我が家は、この東高木家の屋敷跡に建てられている。 小さな頃近くの畑で寛永通宝や永楽通宝という古銭を拾った事があったの でこのあたりに陣屋が建てられていたのは間違いない。道路脇には東高木 家の土蔵が今でも残されている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いまでは関一政が多羅3万石を領し ていたが、戦いの後伊勢亀山に移封になり、替わって高木貞利が関ヶ原の 戦いの戦功により2,300石で入封し、現在の宮の地に陣屋を構えた。 高木家は、本家を西家(元美濃今尾城主)、分家として東家(高木貞友: 1,000石/元美濃駒野城主)、北家(高木貞俊:1,000)があっ た。貞俊は、貞久の孫(貞家の子)であるが、貞久の養子となり北高木の 祖となった。以後一族3人で隔年に参府するのを代々例として明治維新に 至った。いわゆる参勤交代であるが、旗本でありながら大名格を与えられ 普請奉行として活躍したそうだ。普請奉行とは、お城の石垣などの修理な ど今でいう土木工事の監督の役割で木曽三川改修の宝暦治水工事の監督と しても有名だ。さすが普請奉行、屋敷を取り巻く石積みは本当に見事で素 晴らしい造形美を見せてくれる。 高木氏は南濃一帯に居を構える土豪で、高須城主の高木十郎左衛門盛兼を 核に、駒野城主の九郎左衛門帯刀、津屋城には八郎兵衛正家と一族で固め、 一族ほぼ揃って西軍に属していたが、ただ一人貞友だけは東軍に属してい た。この貞友は彦左衛門貞久の子で通称藤兵衛といい、慶長二(1597)年に 家康に召されて仕え、翌三年には上総望陀(もうだ)郡で五百石を領してお り、関ヶ原合戦の後は美濃上石津郡で千石余を与えられ、多羅郡に住んだ とされる人物である。この貞友が高木東家の主である。