美濃竹鼻・仏佐吉
の本の紹介コーナー

(企画・編集・・・1997.4.1発行)不破 洋 

他 共同執筆者・山北千富 渡邊靖子 永田敏子 浅野みほ子 名倉淑子 並河佳子 谷 清子 加藤順子(順 不同)の皆さんの協力により、出来上がりました

仏 佐吉の本は@羽島市歴史民俗資料館 Aひろりん村 B大同印刷KK(〒501-6241 羽島市竹鼻町3214) C不破医院 で一冊・700円で販売しております。


                             
 「仏佐吉の画伝」 を描いた不破春香(ふわしゅんこう)と
     画伝を企画した武藤重造(むとうじゆうぞう)について


 不破春香(1879.8.1〜1962.12.11)本名・廉一。
羽島市竹鼻町新町の医師、不破震吉(1850〜1885、羽島市正木
町不破一色の医師・不破杏斎=為信の末弟)
の長男として誕生。

 六歳で、父と死別し、父の実家(不破一色)に預けられる。
幼少時より画を好み、青年期には名古屋の石河有隣に師事。二
十歳を過ぎてから、実弟の養子先、竹鼻町福江の大野家に身を
寄せ、機屋の仕事を手伝いながら画家の道を研績。苦労の末、
画家として独立してから削と結婚、二男二安をもうける。五十
九歳で妻と死別後は、独り暮らしで画業に励む。一九四六年十
月、武藤重造氏の依頼で、昭和天皇の巡行を記念して「仏住吉
の画伝」を描く。
 気負いが無く、淡々としながらも繊細な筆風に好感が持たれ、
氏の絵は羽島市内の多くの家庭に愛蔵されている。

 武藤重造(一八九三、一九六九)廉一と命名されたが一九二
三年に重造と改名。名古屋市立商業学校を卒業後、一九一人年
にシベリア出兵。太平洋戦争中は竹鼻町収入投を務め、一九四
〇年助役、五三年に竹鼻町長となる。翌五四年に羽島市制を実
行した第一人者。趣味として≠右い時から郷土史を調査研究、
その実績が買われ、一九五八年「羽島市史編纂調査委員長」と
して活躍。著音に「竹ケ鼻城」 「竹鼻町小史」などがある。
「仏住吉の画伝」 (一九四六)は、氏の肉筆による本・文と、
知人の不破春香氏に依頼した絵を和紙に合作したもので、羽島
市歴史民俗資料館に保管されている。

2006.6.23 更新























































佛佐吉について

近世奇人伝より

永田佐吉は、美濃の國羽栗郡竹ケ鼻の人にして、親に事ふることたぐひなし。又佛を信ず。大かた貧しきを憐み、なべて人に交はるにまことあれば、誰れとなく「佛佐吉」とは呼びならしけり。
いとけなき時、尾張名古屋紙屋某といふ家に僕たりしが、いとまある時は砂にて手習ふことをし、又四書をならひよむ。朋輩のもの妬みて、
「讀書にことをよせ、あしき所にあそぶ。」
など讒しければ、主ぬしもうたがひて、竹が鼻にかへしぬ。されども、なほ舊恩を忘れず、道のついであれば、必ずたづねよりて安否をとふ。年經て後、其の家大きに衰へければ、又よりよりに物を贈りけるとかや。
主のいとまを得て後は、綿の中買といふわざをなせしが、秤といふものを持たず。買ふ時は買ふ人にまかせ、賣る時は賣る人にまかす。後には佐吉が直すぐなるをしりて、賣る人は心しておもくやり、買ふ人は心してかろくはかりければ、幾程なくゆたかに暮しける。
父には早くわかれ、母ひとりを養ひしが、母餅をつきて賣りたきよしを云ふ。佐吉其の心にたがはず、餅賣ることをはじめしが、
「必ずちひさくし給へ。」
とすゝむ。母いぶかりて其のゆゑを問ふに、答へて、
「近きあたりにもとより餅うる家あり。大にせば彼れがさはりにならん。」
といふ。其の意を得て小さくすといへども、外と同じく買ふ人ありけり。
ある冬、年せまりて、近國へ金あつめに行くことあり。歸るさ日くれて道に迷ひしに、山賊いでて此のかねを奪はんとす。佐吉いふ、
「我れむかしはまどしかりしが、今はかばかりの金與ふるも傷むにたらず。」
と、投げ出しあたふ。
「さらば其の衣類をも脱ぎて與へよ。」
といふ。
「これも易きことなり。いかさまわぬしら定めて寒からん。猶ほ欲しくば我が家に來れ。皆皆に與へん。」
と、まづ心よく着たるものを脱ぎて、
「さて此代りには街道に出づる道をしへよ。我れけふは道に迷ひたり。」
といふに、一人の山だちつくづくと佐吉を見て、
「我れ教へん。いづくへ歸る人ぞ。」
と問ふに、
「竹が鼻の者なり。」
とこたふ。
「さは佐吉ぬしにあらずや。」
「しかり。」
と云へば、
「こはあしき人のもの取りたり。我が黨の者にいひきかせて、明日かへすべし。」
といふ。
「否ぬしたちに與へたる上は、又取るべきやうなし。」
と、行く道を聞きてわかれぬ。其のあくる日、云ひしごとく取りたる物みなもて來て還したり。佐吉色色に云へどもさし置きて走りさりぬ。
又ある時、諸國の神社佛閣を拜みめぐりしに、出羽の邊にて、疾ひおこり死せんとしければ、心中に拜みて、「今一度母にまみえしめ給へ。」と祈りしかば、速かに癒えけり。本國へ歸りて老母にかくと物語りしてよろこびしかば、母、
「其のやまひ癒えしは佛の御加護なれば、佛像を鑄て謝したてまつれ。」
といふ。こゝに江戸の某といへる鑄工いものしに作らせけるが、やがて成就して船にて登せける道、遠江灘にて風烈しく船覆らんとせしかば、荷ども海に打入れけるうちに、此の佛像をも沈めける。舟人此のよしを告げて詫びければ、佐吉かへりて大いに悦び、
「遠江灘は昔より人多く溺れし所なり。そこに佛像いらせ給ふことは幸なるかな。ねがひてもなすべき作善なり。其の費はいとふべきに有らず。急ぎて今一體鑄たてまつらん。」
と、價を舟人に託しければ、また幾ほどなく成就したるは、今も竹が鼻にあり。その像たやすく成すべきにもあらず。大なる御佛なり。又石佛五百體建てんことを誓ひしが、終に七百體に及びしとぞ。
およそ母に事ふること、晝は起居たちゐに心をつけ、夜はいね靜まるさまを見ざれば、おのれ枕をとらず。常の所行かぞへ盡すべからぬ中に、ある時母柑子をのぞみしかば、近村に求むれどもなし。只同村に此の木を持ちたる人あれども、生得吝嗇しはきこと甚だしき人なれば、これに乞はんもいかゞとは思ひながら、せんかたなく、たゞ一つを乞ひけれども、果して與へず。さるに、其の時おもひがけず一陣の烈風吹き來て、かの柑子を多く落しければ、あるじも今は惜む心なく、拾ひてあたへける。佐吉が心天に通じけるならし。
又思ふやう、「母身まかり給ひて後は、百味の珍膳もかひなし。生前にまゐらするこそ。」と、大人(*尊貴の人)を招請するがごとく饗應せしこと二度ふたゝびありけるとぞ。常に善事をなすこと多きが中に、細かなることには、道行くごとに布の嚢を腰につけ、米■(穀の偏の「禾」を「釆」に作る。:こく::大漢和27067)のおちたるを、手の屆くほどは拾ひ置きて、雪中の餓鳥うゑどりにほどこす。大きなることには、處々の大橋、洪水の時に落つる事を恐れて、自ら財を捨てゝ、石橋とす。およそ至孝をはじめて、其の所行を國侯きこし召して、米を多くたびて感賞し給ひ、
「何事にても望む事あらば申しいでよ。」
と仰せくだされければ、其の時よみて奉りける、
ありがたやかゝる浮世に生れきて何不足なき御代に住む哉
閑田子按ずるに、作者のこゝろ、世は憂き習ひなれども、不足なき御めぐみの御代に住めば有りがたしと云ふなるべし。和歌者流の規矩をもて論ずべからず。たゞ心をとるべし。故に花顛子しるせるまゝを寫せり。
老後、覺翁また實道といふ。壽八十九歳にして、寛政元年(*1789年)十月十日に終る。


おしまい