芭蕉と大垣(2)

                         芭蕉と大垣シリーズ   



第三回芭蕉来垣(奥の細道)


芭蕉は、元禄二年三月二十七日(1689年5月16日)漂白の思いやみがたく、片雲の風に誘われて、「みちのく」へ旅立つ。世に名高い「奥の細道」の旅である。時に芭蕉四十六歳の春であった。

この旅の「むすびの地」として、大垣を訪れている。これが第三回目である。

芭蕉が初めて大垣に谷木因を訪れてから五年の歳月が経過しており、蕉風は俳諧に強くひかれて芭蕉を慕っていた大垣の俳人たちにとっては、格別の意義深い来遊であったことでしょう。


そこで、まず、「奥の細道」の冒頭と結びを見てみましょう。


(冒頭)

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅
人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて
老いをむかふるものは、日々旅にして旅を栖と
す。古人も多く旅に死せるあり。予もいずれの
年よりか、片雲の風にさそはれて漂白の思ひや
まず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に
蜘蛛の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞
の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につき
て心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取
もの手につかず、もゝ引の破をつづり、笠の緒
付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心
にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に
移るに、

   草の戸も住替わる代ぞひなの家

 面八句を庵の柱に懸置。
 弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月
は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽に
みえて上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそ
し。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗
て送る。千じゆと云う所にて船をあがれば、前途
三千里のおもひ胸にうさがりて、幻のちまたに
離別の泪をそゝぐ。

   行く春や鳥啼魚の目は泪

 是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々
は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見
送なるべし。


(結び)

路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へ
と伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽
良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如
行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外した
しき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふが
ごとく。且悦び、且いたはる。旅の物うさもい
まだやまざるに長月六日になれば、伊勢の遷宮
おがまんと、又舟にのりて、

   蛤のふたみに別行秋ぞ
      
 
 
 


第一回来遊の貞亨元年(1684年)の「野ざらし紀行」の旅では、大垣まで来て、

   しにもせぬ旅寝の果てよ秋の暮

と吟じ、五年後の「奥の細道」の旅では、

   蛤のふたみに別行秋ぞ

と詠んでいる。

旅を栖(すみか)とする芭蕉にとって、大垣の地は、故郷伊賀上野と同じように心休まる地であったのではなかろうか。

「奥の細道」の文にも、芭蕉と大垣俳人たちの温かい心の交流が印象的に描写されている。また、そこには、旅立ちの時の反俗的な心境とはうって変わった人恋しささえ感じられるのである。

それほど、芭蕉と大垣俳人との間が緊密であったのであろう。

元禄二年(1689年)秋八月敦賀より美濃入りした芭蕉は、関ヶ原・垂井を経て八月二十一日(陰暦)大垣入りし、如行亭にわらじをといた。

芭蕉は、大垣滞在中、如行亭で長旅の疲労回復につとめながらも、斜嶺亭・左柳亭・如水亭などを訪れて作品を残している。

其の様子は、如行の「後の旅愁」、如水の「如水日記」、荊口の「荊口句帖」支考の「笈日記」などに記されています。
また、この間、赤坂・青墓へも足を運んでいる。





大垣滞在中の芭蕉句

☆赤坂・金生山明星輪寺

ここ赤坂の金生山の山頂に、役の業者を開基とする日本三虚空蔵の一体を祀る明星輪寺がある。金生山で詠まれた句の碑が当寺境内に建立されている。

赤坂の虚空蔵にて八月二十八日虚空蔵奥の院

   鳩の声身に入わたる岩戸哉    はせを

      元禄二年(1689年)作


☆矢橋亭(赤坂町)

木巴は木因の弟子で、父交慰は北村季吟の門人として知られている。
芭蕉は木巴亭に泊まり風呂行燈に

   葛の葉の表見せけり今朝の霜

と落書きしたと伝えられている。


☆青墓・朝長の墓にある芭蕉句碑

平治の乱に敗れた源氏の総大将義朝は、長男義平・次男朝長ら主従七騎で都を落ち延びる途中、青墓の大炊兼遠に身を寄せた。
そこより再起を期して東国へ落ち延びることとなったが、都落ちの際負傷していた朝長は、これまでと哀れにもここで果てた。時に十六歳。円興寺境内に手厚く葬られた。芭蕉もこの地を訪れ哀悼の句を残している。

   苔埋む蔦のうつゝの念仏哉    芭蕉


☆伊吹塚(竹島町竹島会館)
  
 其のまゝよ月もたのまし伊吹山    桃青(芭蕉)

       元禄二年(1689年)「笈日記」


☆卓上句碑
木因亭にて

   かくれ家や月と菊とに田三反    はせを

       元禄二年(1689年)「笈日記」


次の句は、「奥の細道」を終え、船町湊から伊勢に出立つする芭蕉を、大垣の俳人達一同が見送った時の送別連句の中の如行の句で、其の句にちなんで、如行の活躍を記念する「霧塚」が建立された。

☆如行霧塚(船町)

霧晴ぬ暫く岸に立給へ    如行




蛤塚

 「蛤塚」は、「奥の細道」二百七十年祭が催しされたとき、記念として、「奥の細道」の結びの一節「旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」を偲んで、翁の遺墨を刻んで建立したものである。

   伊勢にまかりけるを
   ひとの送りけれは
   蛤のふたみに別行秋そ    はせを

     昭和三十二年(1957年)
      大垣市文化財協会 建立


さて、大垣滞在の後、芭蕉は、九月六日、伊勢の遷宮を拝もうと木因亭前の船町湊から舟に乗り、多勢の大垣俳人達の見送りを受けて、水門川から揖斐川を経て長島へと下って行ったのである。
離別の情けおさえがたい木因等は、遠く長嶋の江まで同船して芭蕉を送った。

   南いせくわなへ十りざいがうみち    木因

    美濃路から別れて伊勢へ向かう
    道しるべ(石標)の句


芭蕉送別の連句塚


船町湊より舟に乗って伊勢へ出立する芭蕉と、それを見送る大垣俳人達の間に送別の句応答があった。
それを記念してこの芭蕉送別の句碑が建立されたのである。

木因舟にて送り如行其外連衆
舟に乗りて三里ばかりしたひ


秋の暮行先々ハ笘屋哉    木因

萩にねようか萩にねようか  芭蕉

霧晴ぬ暫ク岸に立給え    如行

蛤のふたみへ別行秋そ    芭蕉

     昭和三十六年(1961年)
      大垣市文化財協会 建立



大垣・船町湊

   

船町湊(みなと)へは、桑名、三河からの船便が多く、青果物を始め、海産物、陶器・瓶などが陸揚げされた。したがってこれらを商う店が多く、今日の船町一丁目は、かって瓶屋町とも呼んで親しまれた。

船の航行の安全を祈って、江戸時代初期に高灯籠(川灯台)を建立し、その中に住吉神社の分霊を安置して、町の人々の崇敬を集めた。これが住吉神社である。谷木因もまたこの地の船問屋の主として一灯をかかげたであろう。

船町湊のあらまし

元禄二年(1689年)俳聖松尾芭蕉は「奥の細道」の長旅を終え、伊勢の遷宮参拝のため、この湊から船上の人となった。
この船町湊のある水門川は、大垣市の中心街を貫流し、南へ流れて濃尾三大川の一つの揖斐川へ合流している。この湊から桑名へは、約十里である。古来大垣は、戸田藩十万国の城下町として繁栄してきたが、生活物資のほとんどがこの内陸港船町の運河を利用して運搬されてきた。

水運業の始まりは、慶長年間(1596〜1614年)の初め、時の城主石川康通の時代に船町に住んでいた木村与次右衛門と長八の両人で開創した。その後、慶長の末期、城主石川忠総の時代に、善五郎、作蔵、権八の三人が加わり、五人で倉庫を建て、船問屋が開かれた。

正徳年間(1711〜1715年)までは、豊坂丸(八百石)亀坂丸(七百石)の二艘が、江戸往復の御用船として行きかい、その他川船も数多く、元和年間以後正徳年間まで船の利用はすこぶる繁多であった。
その後、川底の変化で大船の運航が不能になり、大正二年(1913年)、養老鉄道の開通によって、旅人の乗船利用は減ったが、貨物輸送は依然として盛んに行われていた。

しかし、時代とともに、河川の変化と交通機関の発達により、何時とはなく、この内陸港の使命もはかなく消えていった。
現在は市民団体の助力により、美しい水がよみがえり、数多の鯉に餌をやる風景の見られる市民の憩いの場となっている。



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