第四回芭蕉来垣

                         芭蕉と大垣シリーズ   




芭蕉の第四回の来垣は、元禄四年(1691年)の秋、京都から江戸への旅の途次であった。


垂井・本龍寺の芭蕉句碑

本龍寺は、垂井町の西北にあって、東光山本龍寺と称する古刹で、八世住持玄潭(げんたん)が俳名を規外(きがい)と称し、大垣の谷木因、近藤如行とも交遊があった。

   作り木の庭をいさめるしぐれ哉    はせを

    元禄四年「蕉翁句集」 文化年間 白寿坊建立



垂井の泉と芭蕉句碑

垂井の町の中央で、美濃一の宮、南宮神社の石の鳥居を南へ行ったところに天然記念物の大ケヤキが立っているが、其の根本から常時清冽な水が湧き出る泉がある。

ここが「垂井の泉」の史跡となっている。ここの一隅に、芭蕉が、元禄四年、本龍寺住持・俳人規外宅に遊んだときの句が句碑となって建立されている。

   葱白く洗ひあげたる寒さかな    芭蕉翁

     元禄四年「韻塞」
     安永四年(1775年) 擽原君里建立




大垣滞在中の俳莚

如行の「後の旅集」には、この時の様子が次のように記されている。


元禄四年の初冬、茅屋に芭蕉翁をまねきて

   漏らぬほど今日は時雨よ草の屋根    斜嶺

    火を打つ声に冬のうぐひす      如行

   一年の仕事は麦におさまりて      芭蕉

    垣ゆふ舟をさし廻すなり       荊口

   打連れて弓射に出る有明に       文鳥

    山がら篭を提る小坊主        此筋

   秋風に鍋かけわたす長いろり      左柳

    畳の上を草鞋でふむ         怒風

   蝙蝠の喰破りたる御簾の縁       如行

    念仏声の細うきこゆる        残香

   別れんと冷めたき小柚子たためて    千川

    をさなきどちの恋のあどなさ     芭蕉

   奥住居留守の表は戸をしまり      荊口

    米舂きさして物買に行く       斜嶺

   鞍おろす馬は霙を打はらひ       此筋

    峠に月のさえ出てかかる       文鳥

   初花の京にも庵を作らせて       芭蕉

    目利で春をおくるなりけり      左柳

     
 

 
 
 
 
 
 
 
 



 
 

これは、高岡斜嶺亭での俳莚である。

また、岡田千川亭でも芭蕉は、「折々に伊吹を見ては冬ごもり  はせを」の作品を残しています。


・冬籠塚(大垣市八幡神社境内)

折々に伊吹を見ては冬ごもり    はせを

    元禄四年(1691年)「後の旅集」・「笈日記」
    昭和三十四年 大垣市文化財協会建立




以上、四回にわたる芭蕉の来垣は、大垣俳壇は言うまでもなく、美濃俳壇全体にも非常に大きな感化を与えたことは言うまでもありません。





大垣俳壇の先駆者・重鎮  谷木因(たにぼくいん)


大垣俳人の先駆をなし、貞享・元禄の頃の蕉風大垣俳壇の盛況を導いたのは、貞門季吟門下の逸材、谷木因であった。

木因は、大垣船町湊の船問屋であった弥兵衛の長男として生まれ、幼名を伊勢松と呼び十五歳の時、元服して九太夫を名乗り家督を相続した。

四十歳で家督を譲り、別に居を構えて白桜下と称し、自ら白桜叟と号し四十二歳で剃髪、後は、杭瀬川の翁と呼び和歌俳諧の道に専念し一家を成した。

木因は、幼時より和漢の学を修め、和歌俳諧を嗜み、長じて京都の貞門の高弟北村季吟の門に入った。その才勝れ、師より俳諧秘伝を授けられるほどであった。

季吟門下では相弟子に松尾芭蕉がおり、後の数回にわたる芭蕉来垣や大垣俳壇の蕉風化に木因の指導や尽力が大きく働いている。

木因の句の初出は、二十八才の時で渡辺友意編「旅衣衆」に入集する次の三句である。

   門に立や番衆高砂の松かざり

   歌よめば鳥もみつ音よ月星日

    追善歌仙俳諧せし其心を

   四九の文か手向の花を折懐紙

その後の活躍は枚挙に暇はないが、大きく見れば、三十歳代前半より談林の俳諧に親しみ、西山宗因や井原西鶴らとの交わりがみえる。三十歳代後半より芭蕉との親交が一段と深まり、大垣へ芭蕉を導くこととなった。

芭蕉没後は地元の各務思考をはじめ伊勢の涼兎の他全国各地の著名俳人と交わり、活躍を続けて八十歳で没している。

俳諧が文芸として本格的に独立して以来の大きな流れである「貞門」「談林」「蕉風」のいずれにも深く通じて、自らも「連俳秘決抄或問」「桜下文集」「おきなぐさ」などを著して一家言を持つ木因は、当時の全国的立場の文化人であった。

また木因は東本願寺法主真如上人、高須城主松平義行、加納城主安藤信行(冠里行)、三井寺大僧正旭海、四日市代官石原清左衛門(呂千)ら貴顕の人々とも親しく交わり、時には古典の講義や俳諧の指導をしている。地元によってもまたとない良き指導者で、大垣・赤坂の主な門人には

  左蚶・木巴・金士・歌三・歌十・如行・荊口
  千川・文鳥・巴州・冬都・左令・里任

などがあり、その他西濃一体はもとより、桑名・柏原などにも及んでいる。

なお、木因の子孫で木因の志を継いだ人に、季因・度因・利因・因左等がいる。


芭蕉来垣の貞享・元禄期の大垣俳人


・戸田如水(じょすい)

名は数弥、通称権太夫(二代目)。戸田氏鉄公の孫で、禄は千三百石、屋敷は城内に、下屋は室にあった。
風雅を好み、「如水日記」を残した。
芭蕉は、元禄二年の来遊の時、門人路通を伴って、室野下屋に如水を訪ねた。

   こもり居て木の実草の実拾はばや   芭蕉

    御影たづねん松の戸の月      如水



・近藤如行(じょこう)

大垣で蕉門に入った最初の人。大垣藩士であったが早く致仕して僧になり、四方に行脚した。本名未だ不詳。
芭蕉来垣の折りには、たびたび宿をしている。芭蕉との交わりも深く、大垣蕉門俳人としては当地第一人者であった。
芭蕉没後、追悼俳筵を催し、百か日忌には追悼の碑を建立し、「後の旅集」を編んだ。

   霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申し     如行

     古人かやうの夜の木枯      芭蕉


・宮崎荊口(けいこう)

名を佳豊、太左衛門という。大垣藩士で知行百石、広間番を勤め、後に藩主に近従した。
彼は、三人のことともに蕉門に入り、芭蕉来遊の折りには歓待を尽くした。
芭蕉との手紙のやりとりもあった。

   鶯の声の下なる湯殿かな       荊口



・宮崎此筋(しきん)

荊口の長男で、通称は太右衛門。大垣藩士。
十七歳で蕉門に入る。武門隠退後は、名を応休と改める。著に「江湖集」がある。

   此中の古木はいずれ柿の花      此筋



・岡田千川(せんせん)

荊口の次男。大垣藩士。岡田治左衛門の養嗣子となり、治左衛門を名乗る。
芭蕉第四回来垣の折り、千川亭に遊び次の句を遣している。

   折々に伊吹を見ては冬籠り      芭蕉
 
 蕉風の雄森川許六も「中にも千川すぐれたり」と評している。

   鶯や貌を見られて笹の影       千川



・秋山文鳥

荊口の三男。大垣藩士。秋山景右衛門正勝の養嗣子となり景右衛門を名乗る。
森川許六の評に、「文鳥は三男たるによって、風雅もまたかくの如し、上手の兄に従い行末熱心次第、名人もかく至るべし」と望みをかけたと言われている。

   炭の火の針ほど残る寒さかな     文鳥



・高岡斜嶺(しゃれい)

名は公正、大垣藩士。元禄二年、芭蕉第三回来垣の折りは三十七歳で、斜嶺方に宿泊した芭蕉は、

   其のままよ月もたのまじ伊吹山    芭蕉

と吟じている。また第四回来垣の時も斜嶺方に宿泊し、附号十八句をなしている。弟怒風とともに、蕉風俳諧に精進し、各務支考とも交わりがあった。

   漏らぬ程今日は時雨よ草の庵     斜嶺



・高岡怒風(どふう)

名は吉重、大垣藩士。老年隠退後は京に仮寓。如風の別号あり。

   団扇売侍町のあつさ哉        怒風


・浅井左柳

通称源兵衛、大垣藩士。芭蕉第三回目の来垣では、左柳亭で、

   はやく咲け九日も近し宿の菊     芭蕉

と、細道吟を残し、一歌仙を催した。「一葉集」には、左柳が元禄元年に送った書翰(かん)を載せている。

   梅が枝や去年の暴風のゆがみなり   左柳



・中川蜀子(じょくし)

名は守雄、通称甚五兵衛。大垣藩士。隠退後惟誰軒と称した。禄五十石より次々加増を受けついに七百石の大身となった。
江戸勤番中に蕉門に入る。赤穂藩家老大石良雄とも親交があった。

   東雲や真平戸はづすかざり松     蜀子


・深田朝香

通称市右衛門、大垣藩士。伝未詳

   旅の宿念仏講や夜の梅        朝香





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