大垣城の伝説 



   〔大垣城と戸田氏鉄候〕


               大垣城シリーズ 
 

大垣城の人柱

昭和二十年七月大垣空襲で、国宝大垣城の天守閣は焼失してしまったが、この城にまつわる伝説の一つに人柱になった山伏の「金剛杖」が、このとき焼けてしまったという話。

其の昔、文禄四年(1595)春のこと、戦に明け暮れた中で毎日大勢の人夫達が、せっせとお城の糀に携わっていた。城主の伊藤祐盛は一刻も早く天守閣を完成させなければならないのに、肝心の人柱が無く困っていた。

そうしたある日、工事現場を見廻っていたら「さも結構な御普請じゃわい」とつぶやきながら、一人の年老いた山伏が見物している姿を見つけたので、家来に命じて引っ捕らえ「人柱」に埋めてしまったという。

ところが別にまた、金剛杖の記には、松平越中守の武運長久を祈って、天守閣上層に金剛杖を置き歴代相伝えて守れば、永遠に城の守護神になる、と言って見ず知らずの旅の導師が、大峯御嶽登山の修験者某が、自ら人柱になったということを杖の頭部に梵字と哭文で書かれていたという。(明治十五年野村籐蔭記)

修験者の持っていた六尺の杖と、一本歯の下駄と笠が、むかし天守閣にあったげな、・・・と誰言うとなく伝えられていた。

お天守の石垣の中に埋められた六部さん(修験者)は、地下の抜け穴からソッと逃れてあとに一本歯の下駄が残されていたげな。

などと似て非なる噂話は、途方もなく広がって、いつの間にか、誰言うとなく「昔話、伝説」となったが、さて・・・如何でしょう。



大垣城の妖怪

大垣城にも、妖怪がいました。嘘か本当か知らぬが、石田三成と狸の妖怪の話。狐と狸の仲が悪くなったのは何時からでしょうかねぇ???

関ヶ原合戦が始まる前の八月十五夜のことです。大垣城に立て籠もっていた石田治部様は、月見の宴も催されず、一人寂しく本丸の書院に寝て居られました。

今度の戦は、亡き太閤殿下への御恩返しじやに、徳川の狸親父をやっつけねばならぬが、見方の中に裏切り者があり、安否も知れず、心配ばかりで寝ても寝つかれぬ有様じゃった。

そんなとき、月影にゆらめく庭の木陰からサーッと気味の悪い北風が吹いて、お天守の石垣の辺りで突然に妖しい人影が現れ、静かに近づいてくる気配、「寄らばバッサリ斬り捨てようぞ」と身構えた途端、急に姿は消え失せたのです。

さても不思議なことよ、と家老の島左近を呼び、翌晩から屈強な家来を宿直させましたが、豪勇無双の左近が、蚊帳の中で寝ていると案の定、妖怪が現れ、今夜は気味の悪い大入道が椽に上がるや否や、グラグラッと家鳴りがして殿中が揺れ動き、その凄まじさは言い尽くせぬほどだったという。

しかし、さすがの左近、物の見事に妖怪を討ち取ってみたら、なんと身の程四尺あまり何百年も生きたかと思われる大古狸であった。


古狸を退治した石田三成が、後で狸親父(家康)にやつけられたとは皮肉なものです。



おあんの松の物語

天下分け目の関ヶ原合戦の時、大垣城に立て籠もった石田三成の家来山田去暦の娘で、十六歳のおあん様が老後毎日のように子供達に語った思いで話を記録したのが「おあむ物語」である。

次に其の一節を略記するーーーーー
前略ーーー
子供が集まって「おあん様、昔の物語をして下さい」と言えば、

「おれの親父は山田玄暦と言って、石田治部少輔殿に奉公し、近江の彦根に居られたが、その後、治部殿謀反の時、美濃国大垣の城へ籠もって、我々皆一緒にお城に居ておじゃったが、不思議なことがおじゃった。

夜な夜な九ッ時分に誰ともなく、男女三十人ほどの声で、「田中兵部殿、田中兵部殿」とおめいて、其の後に「ワーッ」と言う鳴き声が夜な夜なしておったんじゃ。おぞましやおぞましや、恐ろしかったんじゃ。

その後家康様より攻め衆が大勢城へ向かい、日中が戦であった。・・・中略石火矢を打つと櫓もゆるゆると動き、地も裂けるように凄まじいために、気の弱い婦人などは、すぐに目を回し難儀であった。

始めの頃は生きた心地もなく、ただもの恐ろしく、・・・中略我々母達もその他家中の内儀、娘達もみんな天守にいて鉄砲玉を鑄いました。また見方が取った首を天守へ集め各々に札をつけて覚えておき、首にお歯黒をつけてござる。・・・

昔はお歯黒首はよき人として賞翫した。・・・首も怖い物ではない。其の首どもの血の臭いがする中で寝たものである。・・・

中略
ある日寄せ手より鉄砲が打ちかけられ、もはや今日は城も落ちるであろうと騒いでいた。・・・

此の日、我が親父の持ち場に矢文が来て「去暦事は家康様の御手習いの御師匠申された訳のある者じや程に、城を逃れたくば御たすけあるべし。何方へなりとも、落ち候へ。路次の煩ひも候まじ、諸手へ仰せおいた」との事であった。

城は翌日攻め落とされると皆が力を落として、我等も明日は死ぬのではと心細くなっていました。親父が密かに天守へ参られて此方へ来いと母人我等を連れて、北の堀脇より梯子を掛けてつり縄で下へ吊り下げ、たらいに乗って堀を向こうへ渡ってござった。其の人数は親達二人、私と大人四人ばかり、その他の家来はそのままにしてみえた。

城を離れて五六丁ほど北へ行った時、母人俄に腹が痛み娘を産み落とした。大人はそのまま田の水を産湯として使い、引き上げてつまに包み、母人を親父は肩にかけて青野が原の方へ落ちていった。怖いことでござったのうまったく、南無阿弥陀仏・・・・・」


現在大垣城本丸腰郭(天守閣の西側)に「おあんの松」二代目植えつぎがある。おあん様が、天守から此の松を伝ってお堀をたらい舟で城外に逃げ出した。と語り伝えられている。



石引神社と大垣城の長刀岩

寛永十年(1633年)より大垣城六万石の領主となった松平越中守定綱が、其の翌年に将軍家光が上洛の途中に大垣城に宿泊するのに備えて城内の普請を進めた。この時、城内二の丸の月見櫓下の堀に多くの鯉や鮒を放流して、岐阜から鵜船二隻と鵜二十四羽を召し寄せて鵜飼いを将軍の上覧に供したという。

この御普請のときの伝説・・・・・


むかし、大垣城御普請の時、沢山の石垣石を赤坂北の端の金生山から採り出して、大垣まで運びました。田んぼの中に青竹をいっぱい敷き詰め、杭瀬川まで石を運ぶ道をつくり、多勢の人夫を狩りだし、重い石を竹の道を滑らせて運びました。

ここから筏を組み、船町川から外堀の水門川を経て城内に運び込んだ、と・・・

時の大垣城主松平越中守様は、石垣が立派に出来上がってゆくのを見ていましたが、たまたま特別大きな石が、どうしても動かぬのでみんな困り果てていたところ、お殿様が大変お怒りになって、長刀の鞘を払って叱咤激励なさったら、若者達一生懸命力を合わせ、さすがの大石も無事に運搬でき、城郭の修理も立派に終わりました。

お殿様は、たいそう喜ばれ、上機嫌のあまり、幕府へ願い出て天領だった赤坂宿を大垣領に組み替えてもらい、町並み通り筋建て直し図(今の都市計画)まで作られたのに、急に桑名の殿様へとお処替え(転勤)になりました。

せっかくのご栄転なのに大変残念に思われた越中守さまは、桑名祭りを「石取り祭り」として喜びを偲ぶ記念にされたということです。

また、それ以来、赤坂の蔵王権現宮の名を石引神社と改称され、大垣城内の大石は「長刀岩」と呼ばれるようになりました。

石を運んだ船町通りでは、工事を記念して、石車を形どり、大垣祭りの山車にしたということですが、今ではいずれも消えて亡くなりました。



    

大垣のシンボル大垣城             大垣の古城