大垣のシンボル大垣城について





                          大垣城シリーズ 

大垣城の由来

大垣城は、今から460年ほど前(天文4年)宮川安定が築城した(明応9年竹腰尚綱の築城とも伝えられる)といい、水門川の流れを外堀に利用して造られた規模の小さな城であった。
その後城郭の増築が行われたが、天正13年、豊臣秀吉は、一柳直末を城主として天守閣の造営を命じたと伝えられる。
この工事は天正16年になって完成し、それ以来、400余年の間、この天守閣は、四層四階建て総塗りごめ様式で、たいへん優美な城として名高く、歴史の上からも貴重な城であった。


  城の戸や 涼しうあいて 雲の峰   木因


大垣城の別名・愛称

・巨鹿城(おおがき・きょろくじょう)

いつ頃から呼称されてきたか不詳
大きく立派な城ということ。巨は大、さしがね、定規のことであり、鹿は動物のシカで、人間社会では政権を意味し、正しい定規で律する。また権威の座を意味している。


・麋城(びじょう)

麋は、ナレシカ、ミギワ、ホトリなど水辺のことを意味しており、また大きくて立派な、と言う巨鹿と同じ意味を持っている。明治時代から呼称された。



関ヶ原の合戦と大垣城

 司馬遼太郎先生の「関ヶ原」には、関ヶ原合戦前の大垣城周辺の状況が詳しく描写されている。

三成には、城が必要であった。このあと続々と西軍諸将が美濃路に入ってくるというのに、前線指揮所ともいうべき三成の陣が野宿ではどうにもならなかった。東方3キロのむこうに大垣城がある。
・・・・・中略

大垣城へ使者が立った。城主は三万四千石で、大名としては取るにも足りない。伊藤彦兵衛といった。
・・・・・中略

三成は、大垣城に入った。この城は天嶮ではない。西南に牛屋川の流れをめぐらせているだけがかろうじて天然を利用している程度で、
・・・・・中略

ただそれだけの平城にすぎないが、ひどく攻めにくく戦国百年の美濃騒乱にあっては強靭な防衛力を発揮してきたことで知られている。
・・・・・中略

美濃にはもともと大名が多く、岐阜十三万三千石の織田秀信をのぞいては、せいぜい二三万石どまりの小大名が国中を細分化している。合わせて二十二人あった。
・・・・・中略

その諸城のなかで、福束城という小さな城がある。揖斐川に面したとるにも足らぬ小城だが、ただ船着き場がある点で河川交通上の要衝だった。伊勢海から入ってくる船はそのまま揖斐川をさかのぼって福束の川港に荷を下ろす。
・・・・・中略

東軍はこの日の午後から一切の戦闘行為をやめ、大垣から十キロ西北方の赤坂宿一帯に巣をつくりつつあった。目的は、家康を待つためである。その布陣にあたって、まず家康の本陣の位置を決めねばならなかった。
・・・・・中略

水田の中に隆起している小丘陵がある。
・・・・・中略
西軍の根拠地の大垣までの間は一望の水田で、四つ五つ部落があるが眺望をさまたげない。「なんという名の丘」と土地のものにきかせると、岡山だという、いわば普通名詞である。
この岡山に中心点をおき、直径三キロほどの円を描いたほどの範囲内に諸将の陣を置くことにし、
・・・・・

この後、大垣城には西軍の主な大名が集結。岡山には、家康が到着し関が原の合戦へと進展するのです。


この本の中では、大垣市のすぐ西の垂井町出身で秀吉の参謀として高名な竹中半兵衛重治の子である竹中重門が五千石取りの豊臣家旗本であり、犬山城の守りについていたが家康に密通しており、このことにより本領を安堵され、のち幕臣になり家はつづく・・・・・とある。垂井町には竹中半兵衛の史跡が残っています。



江戸時代

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後30余年間に大垣の城主は、石川・松平・岡部・松平と四氏の交代があったが、その後は、戸田氏が11代、235年間の長きにわたって続いた。

初代城主、戸田氏鉄(うじかね)は、摂津の国(兵庫県)尼崎から中山道を下って赤坂につき大垣に入る。5万石から10万石への抜擢であった。。家臣などの家具類は、尼崎より、廻船に積み込んで海路を運び、桑名から揖斐川を通り、大垣高橋(船町港)に送り届けられた。
写真は大垣城西の旧藩主戸田家の菩提寺である円通時にある戸田家廟所で藩祖一西はじめ歴代藩主の墓が並ぶ。(県指定史跡)




明治以後の大垣城

明治維新となり、廃藩置県がしかれ城郭は解体されて次第に姿を変え門構え、御殿櫓、濠、石垣などすべて跡形も無い。ただ一つの天守閣も昭和11年に国宝建造物に指定され郷土博物館として親しまれていたが、昭和20年7月戦災のために焼失する。

その後、大垣城再建の気運が高まり、昭和33年5月着工、翌34年4月、外観を昔そのままの容姿で、完工したのが今の鉄筋コンクリート製の天守閣である。。
昔の広大な城郭はなくなったが、大垣城の外濠の牛屋川・水門川は今も清らかに流れ、そのほとりを散策する遊歩道が整備されている。僅かに残された本丸、二の丸あたりは大垣城公園となっている。

写真は、戦国時代の城跡にある「平林荘跡」で大垣城の城門の一つを明治時代に移築したものです。(県指定史跡)




古寺を訪ねて               大垣城の伝説