大垣の古城



大垣のお城といえば誰もが大垣城と答えますが、どっこい大垣には古城が24もあったのです。さすがに日本の中心に位置する歴史の町、大垣です。今では跡形もなくなっている古城、石碑だけの古城などいろいろですが古き強者どもを思い浮かべて現在の町並みを見るのもいいものです。

郷土の先輩諸氏の資料を古城探索のガイドとして紹介してゆきます。




中世末期の戦国争乱の中で
(大垣市文化財保護協会発行の「大垣の古城」より)



@市橋城 A池尻城 B曽根城 C北方城 

D楽田城 E加賀野城 F福田城 G笠縫城 

H三塚城 I今宿城 J小野城 K長沢城 

L直江城 M若森城 N青柳城 O釜笛城 

P上笠城 Q野口城 R長松城 S青野城

応仁・文明の乱の前後頃から、足利将軍家の家督争いに加えて細川・山名氏など管領職をはじめ中央政府の各実力者たちの勢力争いから、果ては地方の有力者にまで波及して争乱が繰り広げられていました。

土一揆、一向一揆などが多発して、各地で戦乱が相次ぎ収拾もできず、将軍の権威も失墜してゆく時代の変転の中で、美濃においても、守護の土岐氏や、守護代の斉藤氏が全盛を誇り、大きく実力を発揮して、ほとんど美濃の国内を支配していました。

以前は、皇室、宮家をはじめ公家や社寺関係の領有する荘園地の支配は、領主が派遣または在地有力者から任命した荘官が領主のために忠実に、その任務を果たしていたが、次第に実力を培かい、在地にあって実際の支配権を持ち、領家へは一定の得分を納めるだけとなり、またそれさえも滞り不納となり、或いは武士や土豪たちの押領・侵略で、中央の命令も秩序も守られなくなり、荘園制度は根底から崩れ去っていきました。

一方で守護大名が勢力を拡大し、また下克上の風潮が社会全体に広まっていき、力のある者がのし上がってくる時代となり、群雄割拠して相争う戦国争乱の世が久しく続き、そうした社会情勢の中で、武士団を統率する戦国大名が生まれてきたのです。

大垣地方でも、東大寺領の大井荘内に幾多の押妨・錯乱が起こり、農民たちも難を避けて逃散者が続出する有様で、自然、年貢も収まらなく支配管理も不可能になり、やがては実力ある武士たちの所領に帰してゆく、またそのような時代傾向の中で武士たちが相争い勢力の拡大をねらって生きるか死ぬか、食うか食われるかの、斗争をひろげずにはおれないのでありました。

それに加えて虎視眈々、隣国の尾張から織田氏が美濃を狙ってくる。近江、越前からも浅井・朝倉、また六角氏など有力大名が侵入してくるといった繰り返しに、西美濃の武士たちの、それらに対抗し生き延びるため、互いにその拠点としての城が築かれて、各地に多く分布したのであります。



@.市橋城 


金生山ふもとの矢橋工業乙女坂工場
市橋城は、大垣市の南市橋町で、矢橋工業乙女坂工場の濾過場のある辺りにあったと伝えられています。

八幡村史によると、「万治2年(1659)の検地帳に「親方屋敷が、その跡であり、市橋五郎三郎光重が、この城に住み始めて市橋氏を名乗ったとあり、その後子孫代々受け継いで、市橋長勝の時天正15年(1587)今尾城に移り、ここは廃城になったといわれます。

初代光重は、承久の乱(1221)の戦功で美濃国地頭職になった石川光治の弟で、池田群市橋の領主となり、その後、成光−光氏−長久−信久−信直−長久−直信−利信−利尚−長利−長勝と12代続いておよそ四百年ここに君臨し、そのほとんどが代々美濃国守護土岐家に仕えてきました。

土岐氏凋落の後斉藤、織田に仕え、市橋下総守長勝に及んで、さらに豊臣秀吉に仕え、徳川家康に仕えて数々の戦功をあげ、慶弔12年(1607)今尾城から伯耆(鳥取県)矢橋城に移り、元和2年には越後(新潟県)三条城に転封され4万余石を領したが、元和6年(1620)63歳で没し、実子がなく領地を没収されました。

しかしその後養子長政が、近江(滋賀県)蒲生・野洲両群と河内(大阪府)交野群の一部で合わせて2万石を賜って市橋家の相続を許され、寛永の頃には美濃国の堤普請奉行などを勤めています。

なお、赤坂町北之端(元町)の法泉寺は、永禄3年(1560)美濃国最後の守護職斉藤龍興の家臣小林喜兵衛が遁世入道して、天台宗の廃寺を復興し、さらに市橋城主であった下総守長勝の菩提寺として天正年間に五間四面の本堂を再建したといわれます。

同寺開基寂玄は、喜兵衛が入道しての名であり、二代乗玄は教如上人に帰依して真宗大谷派に転じて以後、同寺住職は市橋氏を名乗り現在に至っています。



A.池尻城 

池尻城跡は、大垣市池尻町にあり、大垣輪中の堤防沿いにあって「城跡」または「城屋敷」と呼ばれて池尻町の民家集落の北部に広がる一帯の地で、菅野神社の南面に当たって、その名を伝えていますが、昔の面影を偲ぶ物は何も残っていません。

美濃明細記には、「安八郡中川庄、池尻城、今は村の北高地にあり、飯沼対馬守長就三千貫を領し、土岐頼芸、後ち秀龍麾下なり。同勘平長継、信長に仕え当城に居す。天正11年大垣城主氏家のため、長継大垣に於て生害。池田三左エ衛門輝政天正11年より家老片桐半左エ衛門城代として之れに居す。」とあります。

飯沼系図によると、源氏の系統で下総国飯沼から美濃へ訪れた初代飯沼道関長常は、享禄2年赤坂に住んで土岐氏に仕え、その子対馬守長就は土岐頼芸に仕え、池尻城主となり三千貫を領した。

二代長継は勘平と称え、織田信長に仕えて幾多の戦功あり、永禄12年、長継は信長から、その長身と眼が大きく輝く勇将にふさわしいというので、蛇の目の紋を幕紋に使用するように命ぜられたので以後、家紋にも用いたそうです。

元亀元年(1570)江洲堅田の戦で一族五人及び39騎の戦死を乗り越えて信長に尽くしたが、信長亡きあと天正11年豊臣秀吉が柴田勝家と合戦の時、岐阜の織田信孝方から大垣の氏家領内に放火されたものを長継が裏切って信孝に内通したという疑いをかけられ、秀吉の勘気にふれて大垣城に誘い出され、氏家のために生害された。

三代長実は、長継の子で、慶長5年関ヶ原合戦の時織田秀信に従って岐阜城を守り、徳川方の攻撃に奮戦したが8月23日討ち死にした。その子長資(子勘平)もまた同じく岐阜城の織田秀信に仕えて関ヶ原合戦の時8月22日新加納合戦で戦死した。(享年19歳)

飯沼氏のあと池尻城は池田三左エ衛門輝政が支配し、家老の片桐半左エ衛門を城代として守らせたが、まもなく天正12年、小牧長久手の戦で、大垣城にいた父勝入斎恒興信輝(58歳)と岐阜城にいた兄元助(21歳)がともに戦死したので、輝政は大垣城に移って、池尻城はその後廃城となった。

なお、明治30年頃大垣輪中堤防の増強工事のため、城跡の高地は土取りされて沼田と化したとき、その一部の土中から棺桶と人骨及び刀などが発見され、築城当時の人柱説が伝えられた。





B.曽根城


曽根城跡の華渓寺正面
寺の境内には星厳記念館がある



華渓寺の後面にある曽根城公園
奥に見えるのは星厳夫妻の像です。



華渓寺の側面にあるハリヨの池
すぐ近くに花ショウブの池もあります。
曽根城は、大垣市曽根町にあり、現在華渓寺の境内内地(曽根城の本丸跡)は史跡に指定されています。

かつて揖斐川の西岸に近く、旧東山道と中山道に挟まれた位置にあるために、西美濃地方を旅する重要な場所として存在していたのでしょう。城主は、稲葉氏・西尾氏のあと関ヶ原合戦後に廃城となりました。

はじめ稲葉伊予守良通(入道一鉄)は僧籍にあったが、11歳の時(大永5年)牧田合戦で父兄たち6名が一時に討死にしたので、還俗して家督を継ぎ曽根城主となりました。

一鉄は、大垣城主氏家常陸介直元(ト全)および本巣北方城主安藤伊賀の守守就とともに、西美濃三人衆と呼ばれ、戦国時代の美濃八千騎といわれた多くの武将の中でも傑出して大きな力を持っていたことを物語っており、中でも一鉄は文武両道に秀でた趣味も豊かな実力者として、そのリーダー格であったようです。

こんな話もあります。土岐・斉藤に仕えていた一鉄の実力を見込まれて、織田信長の命で木下籐吉郎秀吉が、竹中半兵衛の紹介で三顧の礼を以て味方に招いたとき、前後7回にも及んで繰り返して熱心に説得に努めたので「信長は嫌いだが、貴殿の人柄に惚れ込んでお味方しよう」と言ったという。そしてついに信長は斉藤氏を滅ぼして、岐阜城を拠点に天下統一への足がかりを固めることができました。

また天正10年本能寺の変で信長の最後をみたあと、一鉄は北方城を奪取し、揖斐城を夜討ちして娘婿の堀池半之丞を追放したり、母方の国枝氏を本郷城から追い出し、さらにまた西保城を攻めるなど勢力拡大に乗り出して、秀吉のご機嫌を損じ清水城に蟄居しました。

その子貞通も揖斐城に退て、のち許されたが、天正16年11月19日清水城で逝去した。(行年74歳)

一鉄の子貞通は天正7年父の譲りを受けて曽根城主となり、同15年従五位下に叙し、曽根侍従と呼ばれ、翌16年には郡上八幡城主に転封され、慶長5年の関ヶ原合戦後は、九州臼杵城5万石に栄転しました。

貞通の子、典通は天正10年曽根城主となりましたが、その母は斉藤道三の娘であるといわれています。同13年豊臣の姓を許され、また彦六時従と呼ばれました。

西尾豊後守光教は、天正16年、稲葉氏のあと曽根城主となり2万石を領した。その後、関ヶ原合戦の時徳川家康に従って関東に出陣したが、石田三成らの挙兵を聞いて一足早く引き返して曽根城を守り、松平・水野六左エ衛門とともに大垣城を攻略し、戦後は揖斐城主となり3万5千石に栄進しました。

なお華渓寺は、稲葉一鉄の母の菩提を弔い、はじめ大垣輪中堤の外にありましたが、後に曽根城本丸跡に移され今日に及んでいます。また、この辺りの堤防は、西尾豊後守光教が水害予防のために築堤させたので「豊後堤」と呼ばれていました。



C北方城と吉田休三入道


美濃国諸旧記に、安八郡北方城、城主吉田宗三入道(休三とも)とあり、美濃国記には、三津屋北方城主吉田休三入道。また百茎根(美濃明細記の原本)には、永禄十年(1567)土岐斉藤軍記に「安八郡三津屋北方城主、吉田久ぞう」とあって、新修大垣市史には、城跡は、大垣市北方町の慈渓寺境内である。

城主は吉田休三入道の後、木村宗左右衛門勝正が居城していた。ということになっている。

しかし、美濃明細記、巻之第六には、大野郡イビノ庄北方城、吉田休三入道。とあり、さらに揖斐郡史には、北方村城山上にあり、建武延元(1334〜38)の頃吉田休三入道が城を築いたところであると伝えられる。

一方で大垣市北方町慈渓寺門前に建てられた石標には「吉田城跡」と記し、裏書きに「吉田休三入道、大永ころ(1521〜27)」とあるので、果たして、同一人物なのか、同名異人なのかが疑問視され、しかも時代も大きく異なっているので、いずれも信じ難い。

どの記録にも「吉田休三」の名前だけは共通するので実在の人物であろうが、史実の解明は今後の研究課題とされている。



D楽田城

楽田城は、永享(1429〜40)嘉吉(1441〜43)の頃、その昔美濃国石津郡高須郷の地頭職であった氏家重国の末裔である氏家内膳盛国が居城していたが、盛国は嘉吉3年7月11日に没したので、その子志摩守泰国が、父の跡を継ぎ城主となった。

泰国の後は彼の孫で石津郡牧田の城主氏家行隆の子、常陸介直元(入道ト全)が、しばらく楽田城に居を構えていたが、永禄2年(または、3年とも4年ともいい不確実である)大垣城主となって移り住んだ。

その後、一説にト全の子、左京亮直重、天正3年より楽田城主となり、同8年大垣城主となる、と伝えられるが、正確な記録はありません。

また、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の時は、西軍の島津隊が一時楽田城跡に布陣していたといわれます。

尚、城跡は一説に楽田町八幡神社付近であったともいわれます。



E加賀野城


加賀野八幡神社正面
自転車は名水を汲みにきた人の物です。



境内にある岐阜県の名水に選ばれた井戸
後藤五郎左エ門基直−世安判官俊基−左衛門氏直−加賀守盛直−佐渡守直政−左衛門祐政−四郎兵衛祐乗−佐渡判官高政−右京高次−直次−直泰後藤氏の祖は、五郎左エ門基直といい、美濃園守護職土岐氏に仕えて世安庄を領し、以後子孫代々は加賀野城主となったという。

城跡は八轄神社辺りと伝えられている。

佐渡守直政の子、後藤左エ門祐政は、応永のころ(1394〜1427)土岐頼政が頼益に攻められて屈服したあと、流浪の身となったが、その子祐乗は足利将軍第八代義政に仕えて、京都で刀装金具の彫刻を業として活躍、優れた作品を生み出して名を挙げ、また近江国坂本で二百石の知行を与えられ、法橋に叙せられるなど高く評価ざれたが、後ち加賀野に帰って、永正9年(1512)5月7日、行年73歳で没した。

また祐乗の子、佐渡判官高政は、将軍足利義植(十代)に仕え、その子、右京高次は斉藤義龍に仕えて、弘治2年(1556)の長良川合戦に功をあげ本巣郡北方の地を給せられて、ここに砦を築いて移り住み、加賀野城は家臣の日比大三郎を居城ざせその留守を守らせたという。

ところが、その隙に乗じて永禄4年(1561)6月1日、隣接の三塚城主種田信濃守が大垣城主氏家ト全に従って加賀野城を攻めたので、高次は家臣の残馬、河村、片山、安田、高田、小倉、野田らと共に極力防戦したが、衆寡敵せず落城し、同三日に高次は自刃して果て、その子直次は尾張の聖徳寺に逃れて、後ち織田信長に仕え、直次の子直泰は織田氏の滅亡後、加賀野に帰って閑居したという。

なお、金工として名を成した祐乗の作品は刀装具の最高に評価ざれ、殊に鐔、目貫、小柄などの彫刻は、秋草に虫を配した図柄の素晴らしざは、その技術とともに追随を許ざず、「古美濃、または美濃後藤」と呼ばれ、以後もその流れを汲んで江戸時代にうけつがれている。




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