大垣の古城
大垣のお城といえば誰もが大垣城と答えますが、どっこい大垣には古城が24もあったのです。さすがに日本の中心に位置する歴史の町、大垣です。今では跡形もなくなっている古城、石碑だけの古城などいろいろですが古き強者どもを思い浮かべて現在の町並みを見るのもいいものです。
郷土の先輩諸氏の資料を古城探索のガイドとして紹介してゆきます。
中世末期の戦国争乱の中で
(大垣市文化財保護協会発行の「大垣の古城」より)
@市橋城 A池尻城 B曽根城 C北方城 D楽田城 E加賀野城 F福田城 G笠縫城 H三塚城 I今宿城 J小野城 K長沢城 L直江城 M若森城 N青柳城 O釜笛城 P上笠城 Q野口城 R長松城 S青野城 |
応仁・文明の乱の前後頃から、足利将軍家の家督争いに加えて細川・山名氏など管領職をはじめ中央政府の各実力者たちの勢力争いから、果ては地方の有力者にまで波及して争乱が繰り広げられていました。 |
金生山ふもとの矢橋工業乙女坂工場 |
市橋城は、大垣市の南市橋町で、矢橋工業乙女坂工場の濾過場のある辺りにあったと伝えられています。 |
池尻城跡は、大垣市池尻町にあり、大垣輪中の堤防沿いにあって「城跡」または「城屋敷」と呼ばれて池尻町の民家集落の北部に広がる一帯の地で、菅野神社の南面に当たって、その名を伝えていますが、昔の面影を偲ぶ物は何も残っていません。
美濃明細記には、「安八郡中川庄、池尻城、今は村の北高地にあり、飯沼対馬守長就三千貫を領し、土岐頼芸、後ち秀龍麾下なり。同勘平長継、信長に仕え当城に居す。天正11年大垣城主氏家のため、長継大垣に於て生害。池田三左エ衛門輝政天正11年より家老片桐半左エ衛門城代として之れに居す。」とあります。
飯沼系図によると、源氏の系統で下総国飯沼から美濃へ訪れた初代飯沼道関長常は、享禄2年赤坂に住んで土岐氏に仕え、その子対馬守長就は土岐頼芸に仕え、池尻城主となり三千貫を領した。
二代長継は勘平と称え、織田信長に仕えて幾多の戦功あり、永禄12年、長継は信長から、その長身と眼が大きく輝く勇将にふさわしいというので、蛇の目の紋を幕紋に使用するように命ぜられたので以後、家紋にも用いたそうです。
元亀元年(1570)江洲堅田の戦で一族五人及び39騎の戦死を乗り越えて信長に尽くしたが、信長亡きあと天正11年豊臣秀吉が柴田勝家と合戦の時、岐阜の織田信孝方から大垣の氏家領内に放火されたものを長継が裏切って信孝に内通したという疑いをかけられ、秀吉の勘気にふれて大垣城に誘い出され、氏家のために生害された。
三代長実は、長継の子で、慶長5年関ヶ原合戦の時織田秀信に従って岐阜城を守り、徳川方の攻撃に奮戦したが8月23日討ち死にした。その子長資(子勘平)もまた同じく岐阜城の織田秀信に仕えて関ヶ原合戦の時8月22日新加納合戦で戦死した。(享年19歳)
飯沼氏のあと池尻城は池田三左エ衛門輝政が支配し、家老の片桐半左エ衛門を城代として守らせたが、まもなく天正12年、小牧長久手の戦で、大垣城にいた父勝入斎恒興信輝(58歳)と岐阜城にいた兄元助(21歳)がともに戦死したので、輝政は大垣城に移って、池尻城はその後廃城となった。
なお、明治30年頃大垣輪中堤防の増強工事のため、城跡の高地は土取りされて沼田と化したとき、その一部の土中から棺桶と人骨及び刀などが発見され、築城当時の人柱説が伝えられた。
曽根城跡の華渓寺正面 寺の境内には星厳記念館がある 華渓寺の後面にある曽根城公園 奥に見えるのは星厳夫妻の像です。 華渓寺の側面にあるハリヨの池 すぐ近くに花ショウブの池もあります。 |
曽根城は、大垣市曽根町にあり、現在華渓寺の境内内地(曽根城の本丸跡)は史跡に指定されています。 |
C北方城と吉田休三入道
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楽田城は、永享(1429〜40)嘉吉(1441〜43)の頃、その昔美濃国石津郡高須郷の地頭職であった氏家重国の末裔である氏家内膳盛国が居城していたが、盛国は嘉吉3年7月11日に没したので、その子志摩守泰国が、父の跡を継ぎ城主となった。 |
加賀野八幡神社正面 自転車は名水を汲みにきた人の物です。 境内にある岐阜県の名水に選ばれた井戸 |
後藤五郎左エ門基直−世安判官俊基−左衛門氏直−加賀守盛直−佐渡守直政−左衛門祐政−四郎兵衛祐乗−佐渡判官高政−右京高次−直次−直泰後藤氏の祖は、五郎左エ門基直といい、美濃園守護職土岐氏に仕えて世安庄を領し、以後子孫代々は加賀野城主となったという。 |