大垣の古城(2)



7.福田城

不破郡福田村、福田城、村の西城跡にあり、那波和泉守正隆、信長の頃ここに居す。

同和泉守正信、秀吉の頃ここに居す。後、稲葉貞通に属し加納へ移る。

美濃明細記には以上のように記されているが、そのほかに拠りどころとなる史料はないので詳細不明である。

城跡は現在の大垣市福田町西部辺りにあるが、昔の面影は偲ぶ由もない。

那波氏については、はじめ那波和泉守正隆が(または正澄とあり)織田信長に従がい、次で豊臣秀吉に属して八千石を領したという。

その子正信は、秀吉に仕えて福田城に住み、天正14年(1586)9月秀吉より濃州西方所々(こえぴ・さくら村上・下・有里・ひる井・大墓・かさけの中・荒尾)で1981貫文の知行を与えられている。

美濃明細記によると、正信はのちに安八郡加納城へ移っており、また稲葉氏の曽根城古図(享保年間の写本)に「那波和泉守邸」が、本丸西辺りに記録ざれていて、或はその後、稲葉貞通の旗下に入り曽根城内に移り住んだようである。



8.笠縫城

笠縫城は、大垣市笠縫町にあったという。

美濃明細記には、「安八郡笠縫城、城主は知れず百姓屋敷に高地あり」と記されているのみで、解明できる史料もなく、皆目知る由もない。

一説に、受円寺付近が城跡であるといわれ、また村西辺りともいい、何れも確認できない。

ここは鎌倉時代、建治3年(1277)京都より鎌倉幕府へ訴訟の旅に出かけた阿仏尼の「十六夜日記」にある笠縫の里で、古代から中世へかけて東山道赤坂より分かれ、墨俣を経て尾張の熱田で東海道に結ばれた鎌倉街道の宿駅として有名である。

北に平野庄、南に大井荘の間にあって、奈良興福寺領の中川庄の重要なポイントとなっている地理的な条件からも、或いは一時的に武将の館か砦があって、笠縫城と呼ばれていたであろうと推測される。



9.三塚城と氏家氏

三塚城は、現在の大垣市三塚町真徳寺の西辺りにあったと伝えられている。

地名の小字に「城屋敷」と呼ばれていることから、およその推測はできるが、美濃明細記には、安八郡、村の西に高畑あり、興福寺の西なり「種田信濃守」天文の頃よりここに居す。氏家ト全の旗下也。とある。

戦国末期の天文年間(1532〜54)より氏家常陸介直元(入道ト全)の家臣で、種田信濃守兼久が城主として在住していたが、元亀2年(1571)織田信長の伊勢長島の(一向一揆)攻めに大垣城主氏家ト全とともに出陣して活躍、強力な一揆軍のため殿戦しつつ石津郡太田郷安江村で奮戦したが武運拙なくト全とともに5月12日討死にした。

その後ト全の嫡子左京亮直重が大垣城主となり、その弟内膳正行広は三塚城主となって一万五千石を領したが、天正11年8月伊勢桑名城二万二千石に転任して、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、石田三成方に加わったため敗戦の悲運を見て没落し、元和元年(1615)5月大阪夏の陣後、大阪城内で自殺して果てたという。(行年70歳)



10.今宿城と種田氏

安八郡今宿城は、現在の大垣市今宿町にあって、今宿と加賀野の境を画する辺りで、JR東海道線に分断された地域が城跡であるといわれています。

昔、加賀野城を攻めるための前線基地として築城されたとも伝えられている。

美濃明細記には、「今宿は始め三塚の内なり信長の命により、塚を忌みて助之丞これを改める。種田助之丞五百貫を領す。元亀2年三塚城主同氏信濃守と同時に討死。」と記録してある。

三塚城主種田信濃守兼久は、今宿城主種田助之丞の兄であり、助之丞もまた兄に従って元亀2年(1571)の長島攻略戦に参加したが、一向一揆のために敗退し、兄と共に大垣城主氏家ト全を助けて殿戦し、5月12日討死して果てた。

新修大垣市史でも、今宿城主の種田助之丞正元は、信濃守の弟であるという。と記している。



11.小野城と横幕氏

安八郡小野城跡は、大垣市小野町の専勝寺辺りにあって、本丸の位置が小野寺であろうと伝えているが、

城主の横幕帯刀信兼は、大垣城主氏家常陸介直元ト全とその子左京亮直重の旗下であった。 

その時代から考えても、専勝寺の寺歴を見ると、古く保元2年(1157)本巣郡古橋村に創建され、康永元年(1342)天台から真宗に転じ、大永3年(1523)8月の大洪水で初動を流失したので現在の地小野に移り再興された。

既に砦か館かいずれにしても小野城に関する僅かな記録から、横幕、氏家の存在した時代は、大永年間(1521〜27)より後の永禄(1558)〜元亀(1570)天正(1573〜91)の頃であり、およそ30年から70年ほど後の時代であるから、既に同寺の存在する限り、小野寺域が城郭になったということではない。

城の位置と、城主の業績その他についての記録もなく詳細はわからない。



12.長沢城

長沢城は、大垣市長沢町1丁目辺りにあったといい、

城主は氏家常陸介直元が、天文年間(1532〜54)の頃、しばらく在城していたと伝えられまたその後種田某が居城したともいうが、確実なことはわからない。

戦国争乱期に生きた氏家直元入道ト全は、永正10年生まれで、元亀2年(1571)織田信長の長島攻めに参戦して討ち死にするまでの59年間に至る生涯、美濃八千騎といわれた多くの武将たちのうちでも特に、曽根城主稲葉一鉄と本巣北方城主安藤守就とともに西美濃三人衆と呼ばれて傑出した存在で、この地方に大きく勢力を張っていた。

直元が父祖代々居城した楽田城から、永禄年間大垣城に移るまでの、天文年中しばらく長沢城に居を構えていたと言うことは、領国支配の勢力拡大政策、或いは戦略的意図などからも当然あり得ることであって、否定もできないが、ともあれ下克上の群雄割拠して相争った西美濃の混乱期において波乱に富んだ氏家一族の生き方の一面を想像するにすぎない。




13.直江城 

直江城は、大垣市直江町の八幡宮南辺りにあったと伝えられているが、正直なところ、その城跡は判然としない。

城主は種田彦七郎といい、今宿城主種田助之丞正元の弟であり、後に丸毛三郎兵衛と改めた。新修大垣市史に、「種田彦七郎・・・今宿城主種田正元の弟で、後に丸毛三郎兵衛と改めた。

三塚城の信濃守、今宿城の正元らと同じく種田一族であり、氏家氏の旗本として仕え、戦功を立てたという」と記しているが、岐阜県史中世編の第4章では、丸毛氏、小笠原長氏の族丸毛六郎兼頼は多芸郡大塚村に住んで、子孫は当郡の強族であった。(舟田乱記・信長公記)

常山紀談に丸毛兵庫助長住、その子三郎兵衛長隆は斎藤龍興に従って大塚城にあったのを、安東・氏家二氏が龍興に逆いて丸毛を攻めたとき、長住父子三百人許り大塚城から一里余り(約4キロ)出て陣地を張り、百姓男女を間わず催し出して、各竹竿を持たせ大軍によそおい、氏家らの軍を破って感状を得たことが載ぜられている。と紹介しており、

美濃明細記の古城編には、多芸郡大墳城の項で、丸毛三郎兵衛兼頼、後ち道和入道と号す。大垣より福束城に移る。太閣記・三河後風土記に日く、天正12年秀吉直江城を丸毛三郎兵衛に守らしむ、とあり、直江城跡なし、直江土人これを伝えず、直江、大墳同地なるゆえ、大墳城を直江と云う談となり。としている。

これは、今の養老町直江(なおえ)のことであり、大垣市の直江(すぐえ)と同じ文字で呼ぴ名が異っているが、記録の文面では読み仮名がつけてないので、どちらかが誤りであろうか。

或はまた岐阜県百科事典の「まるもかねとし(丸毛兼利)の項では、安土・桃山時代から江戸時代初期の武将、丸毛光兼の子、三郎兵衛、名を親吉、安職、兼頼、長隆、親長ともいう。

織田信長に仕え、天正元年(1573)7月将軍足利義昭の山城国真木島城攻めに参戦、また豊臣秀吉に仕え天正15年島津義久との戦に従軍し、翌16年直江城(大垣市)ついで大塚城に居住し、翌17年安八郡福束城へ移り、一万石を領したが、慶長5年関ケ原の戦で西軍に味方し、徳永寿昌と戦って敗れたため8月17日城を捨てて逃亡、のち加賀国で前田利常に仕え(給二千石)入道して道和といった。としている。

撞田彦七郎が後ち丸毛三郎兵衛と改めたことは、種回から丸毛へ養子縁組したのではないかとも推察されるが、直江城の所在は、多芸か安八かについて些か疑間が残る。



14.若森城 

若森城跡は、大垣市若森町の若宮八幡社の辺りという。

現在「堀の内」という地名(小字名)に城郭の一部を偲ぷことができるのみであって詳細は全くわからない。

城主は、宮川氏二代で、はじめは美濃国守護職土岐家の一族である宮川吉左工門尉安定が三千貫を領して、ここに居城していたが、後ち従五位下に叙し左衛門佐となり、入道して為心と号し、斉藤道三に属した。天文4年(1535)安定は舅の大垣彦五郎長家を討って牛屋砦を整備拡張し、割田城の空き城から門や石垣石を運んで、大垣城を創建したと伝えられるが、正確なことは尚不明である。

斉藤道三が西美濃の一向一揆との戦いの収拾策として和睦を図ったとき、安定は本願寺側の草道島西円寺に対し、道三の名代として接衝し、その任務を遂行している。

若森城は安定のあと、その弟の宮川但馬守が居城して、信長に仕え、氏家直元入道ト全の妹と結婚し、その旗下に所屑して、伊勢長島攻めや越前の朝倉討伐戦にも従っており、後ち、ここを去って加賀の前田利家に仕えたという。



15.青柳城 

美濃明細記に「不破郡青柳城」とあるが、新撰美濃志にも、不破郡青柳村の項に、「青柳城址は隣村安八郡割田村の北の方に土囲の形のこりて、西の方を本丸、東の方を二之丸のあとなりと云う。

もとは青柳の地内なりしが、後世、割田の地となる。

城主和田奥田丸は、いつの頃の人にや今定かならず。太閣記にのせし和田弥太郎はその一族なるべし。

また市橋下総守長勝は当城より今尾の城に移ると云う。

小寺掃部も青柳村居住の士なりし由、美濃明細記に見えたり」以上のように見てくると、青柳城は不破郡内にあったが、隣村の割田村とは、ともに杭瀬川の東にあって、利害関係はもとよりのこと、その支配関係の上において、何かの都合で改められて、青柳城が割田城と呼称されたようである。

青柳、割田が小規模な同じ地域に併立することは不可能なわけであり、しかもすぐ近くにまた若森城があって、それぞれの所在年代を詳かにする史料に乏しいため、今後の研究課題といえよう。

最初の城主和田奥田丸は、和田義隆の弟、義実の子といわれ、また太間記にある和田弥太郎も、その一族であろうとされるので、およそその時代も推測できよう。

次の市橋長勝は池田郡市橋城主から発展して次々と転し活躍しており、新修大垣市史には、青柳城に在城したのは、元亀・天正のころ(1570〜91)であろうとしており、また小寺掃部は、それより古く天文年間(1532〜54)であろうとしている。

城跡は、現在の割田町にあった。






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