俳聖 芭蕉翁(5)

                         俳聖 芭蕉翁シリーズ    



近畿漂泊



中村不析画

















猿 蓑 塚(大山田村伊賀街道脇)

















桜麻塚(須知荒木神社)

















去来の落柿舎
















堅田の浮御堂










「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は伊勢の長島から久居に入り、数日後に江戸からきた李下を伴って郷里上野に第六回めの帰省をした。その途路、伊賀街道を西に長野越えに進み、山中で

     初しくれ猿も小蓑をほしげ也

とよんで上野に入った。 この旬は『猿蓑』の巻頭旬に掲げられて冬の季題に入っているが、その作意には晩秋の気配がみなぎる名句である。

芭蕉の旅に終始随行した曽良は八日にひと足さき上野に着き、伊勢でひとまず別れた路通も伊賀に来たので、芭蕉の兄半左衛門方で芭蕉の帰着するのを待っていた。

郷里に帰った芭蕉は門人、知已の歓待をうけ、風麦、良品、梢風、半残、梅額、木白、配力、園風、一入、平仲らの句会に招かれ、それぞれの句吟をのこしたが十一月末、奈良の祭礼見物におもむいた。

     初雪やいつ大仏の柱立

は、大仏の再興をよろこぶ吟である。芭蕉はさらに湖南、京都、大津、膳所におもむき、この地で越年、近江の蕉門と親交をわかち、

     少将のあまの咄や志賀の雪      はせを

     あなたは真砂麦はこがらし      智 月

という句文をのこしている。 あけて元禄三年(1690)正月三日、郷里上野に停った芭蕉は三月頃まで滞在した。その間二月六日西島百歳の邸で俳席が催された。百歳、乍木、村鼓、式之、梅額、一桐、槐市、呉雪らも一座して歌仙を巻いた。ついで、三月二日、小川風麦亭において、

     木のもとに汁も瞼も桜かな

を発句とした歌仙が與行され、風麦、良品、土芳、雷洞、半残、三園、木白らが加わった。これらはすべて蕉門伊賀連衆に属した上野の俳士であるがなかには所伝未詳の人物もいる。この滞在中、芭蕉は伊賀の名所古跡を尋ねる意向をしめしたので三月十一日、その探訪を兼ねて木白が荒木村の白髭神社(周知荒木社)で連句を興行した。その吟に

     畠打音やあらしのさくら麻      はせを

の句がある。また、花垣の里に名木八重桜を観にでかけた。この里は「古今著聞集」などの古書にあらわれる奈良八重桜の故事で知られた処、この所伝に拠って芭蕉は

     一里は皆花守の子孫かや

と詠んだ。さらに藤堂橋木邸に遊び

     土手の松花やこぷかき殿作り

の句をのこした。橋木は上野城内二之丸に屋敷をもつ伊賀付の高知役で、千五百石を禄して藤堂修理長定と称したが、宝永七年(1707)三十七才で没したことから、芭蕉との対面は橋木十七才、芭蕉四十七才の頃であった。

この滞在中芭蕉にとってひとつの悲報がもたらされた。吉野、高野山の旅に万菊丸と偽称してつれだった愛弟子杜国が三月二十日、三河国美保の隠宅で死去したことである。杜国は蕉風初期の門人のなかでも力量のある俳人であった。芭蕉の悲嘆をきわめ「夢に杜国が事をいひ出して沸泣して覚む」とあるほど落胆し哀惜する芭蕉であった。

芭蕉は三月末に近江の膳所に酒堂を訪れ寄寓した。酒堂は医を職とする名望家で初号を珍碩、珍夕といい、酒堂は酒落堂によるものである。俳諸を尚白に学んだが元禄二年頃、芭蕉を師として蕉門に入った。

その後芭蕉は四月六日から七月二十三日にかけて石山寺の西北にあたる国分山の幻住庵に入った。この草庵は菅沼曲水の伯父菅沼定知の庵であるが定知が死去してのち、久しく荒廃にまかせる空居であったが曲水のはからいで修復し芭蕉を迎えいれたものであった

「石山の奥岩間の後ろに山あり国分山といふ!」

にはじまる『幻住庵の記』は『おくのほそ道』『嵯峨日記』とともに芭蕉俳文の名著にふさわしく先たのむ椎の木もあり夏木立の句とともに漂泊安住の、心境を伝えるものである。秋だって幻住庵を出た芭蕉は、大津の無名庵に入ったかなここで八月十五夜の名月を賞で

     名月や兄たち並ぶ堂の稼

     名月や海にむかへは七小町

     明月や座にうっくしき顔もなし

とうち興じて、九月には堅田の本福寺に千那を尋ねたが帰って風邪で寝込んでしまった。この呻吟を堅田の落雁にも例えて

     病雁の夜さむに落ちて旅寝かな

と悲愁にくれる心情を吐露している。九月二十七日芭蕉は無名庵から京に上ったがすぐ引返し翌日伊賀に帰った。その道すがら、寒村の抒情にひかれて

     しぐるるや田のあらかぶの黒むほど

の句を残した。帰省した芭蕉は十月氷固亭に招かれた。氷固は後の非群であり上野町の商家である。
きりきりすわすれ音になく火燵かな

の立句で歌仙一折を興行したと伝えられる。暫くして芭蕉は再び京に上り、大津で越年した。乙州の新宅で春を待ち

     人に家をかわせて我はとし忘れ

と酒落こみ、その健在振りをしめしている。明けて元禄四年四十八才の春を迎えた芭蕉は正月、乙州が江戸に赴く送別の句会において

     梅若菜まりこの宿のとろろ汁

の句を餞別とした。その頃、

     大津絵の筆のはじめや何仏

     住みつかぬ旅のこころや置火燵

の句を披露して大津を去った。その停路、伊賀の山中で

     山里は万才おそし梅の花

の吟をえて、伊賀に帰着ののち、藤堂橋木亭の句会において、この句を披露した、二月には奈良の薪能を見物するために出かけ、再び伊賀に帰るあわただしい日を過したが三月二十三日上野札ノ辻で両替業を営む大坂屋万乎の別邸に観桜句会があった。
芭蕉は

     年々や桜を肥やす花の塵

の自句を発句として歌仙一折を巻いた。ただしこの歌仙は伝存せず、同席した連衆の名さえもわかっていない。

出郷の月日は明らかではないが三たび伊賀を出た芭蕉は京から嵯峨にむかい四月十八日去来の落柿舎に入った。落柿舎は門人の去来の別邸。窪田猿錐肖像清閑の地は芭蕉のあわただしい旅から旅へのあけくれに一抹の楽しみを与えてくれた。

その起居のさまをつぶさに日記風にかいたのが「嵯峨日記」として知られる庵住のさまである。

そのときの草稿と推定される「落柿舎の記」もまた味わい深い愛閑の記である。

時折り門人達が訪れてきた。凡兆妻の羽紅尼、去来、千那、史邦、丈草、李由、曽良も芭蕉の寂び住いを訪れ、団欒して過すこともあったが、人々が帰ってしまうとまたもとの静寂に戻った。孤独に馴れた芭蕉にとっても、やはり独居は淋しいものである。
眠れぬまま

     憂き我をさびしがらせよ閑古鳥

と詠んでいる。その間京都、湖南の地を往返し、凡兆宅、無名庵などにも滞在することもあった。ちょうど七月には凡兆、去来が共編する「猿蓑」が刊行された。この集は蕉風俳諸の最高峰を示すものであり、伝統の芸道が伝承してきた「さび」「しをり」「ほそみ」などの理念を俳講という形式のなかに定着させ、連句の「にほひ」「うつり」「ひびき」に受け継がれた。

今年の観月には待宵を楚江亭ですごし、名月の夜は無名庵の木曽塚で月見の句会を催し、いざよい月を堅田の舟上で賞した。そして九月二十八日義仲寺を発ち江戸に向って旅だった。門人支考、桃隣が同行した。


芭蕉 江戸に戻る



杉山杉風画

















芭蕉筆跡 月見の献立





途中諸所で交遊をしながら十月二十九日、三年ぶりで江戸に戻った。

     都いでゝ神も旅寝の日数哉

     ともかくもならでや雪のかれお花

はその感懐であった。さしあたり橘町の彦右衛門の借家に落ち着き越年。翌五年の歳旦の吟

     人も見ぬ春や鏡の裏の梅

の句によって、孤高の道を歩むきびしい生活津を暗示している。

この仮寓のうち杉風が施主となり枳風、曽良、岱水らが助力で新庵が完成、五月中旬橘町の借家を出て芭蕉庵に移った。

こうして芭蕉はようやく旅あとの安堵を満喫し平安な日々がつづいたが、江戸蕉門にも確執がみえ、点取俳諸に傾く其角の動き、嵐雪と杉風、曾良の間の亀裂が徐々に深まりをみせ芭蕉を憂慮させた。

桃の節句に其角、嵐雪への激励と期待をもって

     両の手に桃とさくらや草の餅

の讃句をよんだが、結果はむなしい、何か意に満たぬものがのこったらしい。そうした悶々のこころを開かせたのは曲水の未訪についで八月には彦根の許六が入門し、九月には珍碩が来て、四カ月ばかり滞在したことであった。しかし喜憂こもごもは人生の常、三月末、猶子桃印の死にあい、芭蕉は悲しみ深く断腸の思いやみがたく、初秋の頃には「閉関の説」を草して

     朝顔や昼は鎖おろす門の垣

の句を吟じ、門扉を堅く閉して、人が訪れてきても一切面会しなかった。

この機会に芭蕉は煩悩をさけて新気風への思索にふけった。だがその閉関も八月半ば頃には終わったらしく、十月九日其角、桃隣らと素堂亭の残菊の宴に興じた。その冬、藤堂玄虎の江戸柳原の旅宿で舟竹、玄虎と三吟六句を催した。

     もののふの大根苦きはなし哉

この前詞に「菜根ヲ喫して終日丈夫に談話ス」とあるのは玄虎をさす。玄虎は戦国三勘兵衛の一人、渡辺勘兵衛了の五代目にあたり藤堂の姓を腸わって藤堂長兵衛守壽と称し、食禄千五百石の高知役である。
元禄七年芭蕉は

     蓬莢に聞はや伊勢の初便

の歳旦吟で新年を迎え、三月、再び藤堂玄虎を柳原の旅宿を訪ね

     花見にとさす船遅し柳原

の即興吟をのこしたが、五月十一日次郎兵衛を同伴して帰省の旅に出発した。

     麦の穂をたよりにつかむ別かな

の留別の吟は、芭蕉の胸中に再会を期し難いという借別の情がひそんでいる。


最後の帰省



悼寿貞 かずならぬ句碑













墓参塚(上野市愛染院境内)













花綿塚(上野市赤坂町)





五月十五日東海道の島田宿に着いた芭蕉はこの宿の川庄屋塚本如舟を訪ね、名古屋から佐屋、長島、久居を経て二十八日郷里上野に着いた。

翌閏五月四日半残の訪間をうけ、十一日雪芝亭で興行される俳席に出

     涼しさや直ぐに野松の枝の形     芭蕉

を立句に歌仙を巻いた。雪芝は上野本町筋の札ノ辻で酒造業を営む山田屋、広岡七郎右ヱ門である。のちこの邸は野松亭と名づけられた。同じ頃、窪田猿雖の亭に遊び

     柴付し馬の戻りや田うへ樽

の吟をのこし、十六日には伊賀を発ち山城加茂を経て木津にむかい乙州亭に投宿、十八日膳所の曲水亭に四日間滞在、その後京に上り嵯峨の落柿舎で酒堂、去来、支考、素牛、丈草らと会い歌仙を興行。しばらく滞在するうち越中の浪化、大坂の諷竹らの訪問をうけ一座して連句の興行があった。

六月八日には江戸の芭蕉庵に病弱の身をよせていた寿貞の訃報をうけ、その死を深く悼み「何事も何事も夢まぼろしの世界 一言理くつは無之候」と猪兵衛宛に書状をしたため送った。

寿貞は芭蕉と何らかの親密な関係にある女性として知られるが、素姓も明らかでなくつねに芭蕉の映像に投影する幻の女性である。

その頃、伊賀の蕉門たちが資材をもちより兄半左衛門の後園に草庵を新築していた。中旬になって芭蕉は伊賀上野に帰り、その庵で盆会を営んで

     家は皆杖に白髪の墓参り

  尼壽貞が身まかりけるときゝて

     数ならぬ身となおもひそ玉祭

の句は、その時の吟であった。二十八日の夜には猿雖亭に夜会があり、猿雖、芭蕉、配力、望翠、土芳、苔蘇、卓袋ら七人が一座して歌仙を巻いた。この席で芭蕉は猿雖の発句に脇して、

     あれあれて末は海行く野分哉    猿雖

      鶴の頭をあぐる粟の穂      芭蕉

を吟した。この頃、玄虎邸、望翠邸に遊び、

     風色やしどろに植し庭の秋

     里ふりて柿の木もたぬ家もなし

の句をのこした。ついで、九日猿雖亭で催された土芳が立句の三吟がある。
八月九日 猿雖亭

     稲妻に額かゝゆる戸口かな     土芳

      畠境にのびる唐黍        猿雖

     清水出る溝の小草に秋立ちて    翁

      わすれ頃なる酔ほのかなり    芳

     又起てあり明細き屋根の霜     雖

      松風こもる山の中段       翁

猿雖亭におけるこのときの句に

     いなづまや闇の方行五位の声    芭蕉

の別吟があった。八月十五夜、新築の無名庵に月見の宴が催された。
芭蕉はその日の献立を書いて、門人たちをもてなし、この宴で三句の吟を披露した

     名月に麓の霧や田のくもり

     名月の花かと見へて綿畠

     こよひ誰吉野の月も十六里

去年の名月を湖上で楽しみ、今宵はふるさとの山中に静寂な風興をあじわった芭蕉は、九月八日伊賀をたって西国巡遊の旅に出た。


最後の西国巡遊の旅



終焉の地(大坂御堂筋)











義仲寺(大津市膳所)





その夜は猿沢のほとりに宿り、妻恋う鹿の鳴声に哀切の情をよせてひいと暗く尻声悲し夜の鹿菊の香や奈良には古き仏達翌九日、奈良から暗峠を越え菊の香やくらがり登る節句かなを句吟して大坂に入った。十三日には住吉の桝市にもでかけ、大坂蕉門と瀕繁に俳席をともにして二十六日料亭浮瀬で

     松風や軒をめぐって秋暮れぬ

とよんでいる。翌日園女の亭に招かれて

     白菊の目に立てゝ見る塵もなし

と、園女の風流清雅な人柄を讃えた。園女はそれをうけて

     紅葉に水を流す朝月

と脇し、同席の之道、一有、支考、惟然、酒堂、舎羅、何中の九吟歌仙を巻いた。

その二日後の二十九日から芭蕉は下痢になやまされて病床に臥し、門人たちの手厚い看護をうけたが容態は悪化をたどり、十月五日朝、南御堂前、花屋仁左ヱ門の貸座敷に移った。

芭蕉の重体を聞いて各地から門人たちが大勢馳せつけた。
之道は住吉神社に師の延命祈願をして、回復をまったが、いっこうはかばかしくもないまま沈痛の刻がつづいた。

八日の深更、その死期をさとった芭蕉は看護のために訪れた呑舟に筆をとらせて

     旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

の最後の吟を書かせ「はた生死の転変を前におきながら、発句すべきわざにもあらねどよのつねこの遺を心に籠めて、年もやや半百に過ぎたれば、寝ねては朝雲暮煙の間をかけり、覚めては山水野烏の声におどろく、これを仏の妄執と戒め給える、ただちは今の身の上におほえ侍るなり、この後はただ生前の俳誇を忘れんとのみ思ふは」と悔まれることしきりと伝えられる。

十日の夕方から発熱、容態いよいよ悪化をたどり、夜になって遺書三通を代筆させ、自ら兄半左衛門宛に一通を認めて、看護の門人たちに囲まれて、十二日午後四時頃、静かに臨終。五十一才の生涯を閉じた。

遺骸はこの夜、長櫃に納められ遺言によって淀川を膳所の義仲寺へ舟で上った。

詐報をきいた伊賀の門人土芳、卓袋はとるものもとりあえず大坂へ急いだが、既に近江へ移されていたので、後を追って義仲寺に到り、最後の対面をした。其角、去来、丈草、乙州、支考、惟然、正秀、木節、呑舟、次郎兵衛らの門弟がみまもるなかに義仲塚の脇に埋葬された。導師は義仲寺の直愚上人が勤行し、会衆三百の葬礼をうけた。

土芳、卓袋は遺髪をもらい受けて伊賀上野に停り、願成寺愛染院に故郷塚を築いてねんごろに菩提を弔った。


蕉門伊賀連衆

蕉門は芭蕉を始祖とする俳講の一派蕉風の門人、つまり芭蕉の直門および、その流派に属する俳人に用いられる総称である。なかでも芭蕉と同郷の門人を伊賀連衆とよんだ。

もともと、伊賀には筒井定次の冶世に大和連歌の流れをくむ地下俳講があり、筒年氏のあと領主となった藤堂和泉守高虎、侍大将藤堂新七郎良勝もまた武将俳諸を嗜む文筆の人であった、その師系がやがて貞門の俳諸にひきつがれ新七郎家を中心とする文芸サロンを形成した。

若き日の芭蕉は主君良忠(蝉吟)の俳講グループに属したが、良忠の没後江戸に下って談林新風を受け入れ、俳諸師としての地位をかため、遂に蕉風創造の偉業をとげるにいたった。伊賀の俳諧仲間たちも、芭蕉に師事して俳諧に精通する者が多く、その一座には新七郎家の家臣団を中心とする武家層に加えて僧侶などの知識人、教養町人が結集した。

市隠、陽和、半残、車來、風麦、宗七、宗無、探丸、苔蘇、土芳、配力、玄虎、良品、梢風尼、乍木、一桐、橋木、氷固(非群)、卓袋、万乎、桃隣、露川、槐市、式之、雪芝、猿雖、望翠、九節、祐甫、一鷺、一酌、一東、一啖、宇多都、烏栗、可誠、我峯、魚日、示蜂、仙杖、沢雉、荻子、洞木、杜若、買山、尾頭、風睡、利雪、雪窓など多彩な顔ぷれである。

これらの門人達はいずれも疎密の差はあるが江戸前期伊賀に俳講文芸の基礎を築いた人びとであった。

その俳風は素朴で技巧のない初心性に根ざしていたので「伊賀の作者、あだなるところを作して、もつともなつかし」と評せられ、「あだなる風」とよばれた。

それは「俳諸は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれと」説く芭蕉のこころであった。




俳聖 芭蕉翁(4)