大垣の古城(3)




16.釜笛城と小寺氏

新修大垣市史によると、天正2年(1574)5月、多芸郡の野方を開拓して、兼父絵(釜笛)村という。

釜笛城跡は、小寺官内の居城であった。としているが、詳細については寄りどころとなる史料が無く不明である。

古老の伝えるところによれば、江戸時代に大垣藩の煙梢蔵(火薬庫)のあった場所が、昔の城跡であり、村中に高い台地が遺存していた。という。

小寺宮内とは、美濃国守護斉藤義龍の家臣小寺官内右衛門則頼のことで、中世未期の戦国争乱期に、大垣地方で勢力のあった武将であろう。

則頼の妻は、青木刑部卿法印重直(加賀右工門)の娘であり、青木氏は、今の大垣市青木町出身で、土岐・斉藤・織田・豊臣に歴仕し摂津国で一万余石を領したが、後ち徳川幕府に仕えている。

則頼の子、次左工門正重は天正九年美濃国で生れ、母の実家である青木氏(民部少輔、従五位下青木一重)の養子となり、慶長10年11月、従五位下駿河守に叙せられ、寛文4年8月3日摂津国牧の庄で卒(享年84才)した。

   −寛政重修諸家譜による−



17.上笠城 

上笠城は、大垣市上笠町にあったという。

百茎根およぴ美濃明細記によると、多芸郡上笠城、宮川権之助安清、後ち安済と号す。永禄(1558〜69)のころなり、宮川吉左工門一族なり。とある。

宮川一族といえば、天文(1532〜54)のころ、美濃国守護職斉藤道三の与力であった宮河孫九郎、およぴ大垣城を創建したという宮川左工門尉安定などがいる。

安定は大垣城創建以前に若森城に居城していて、そのあと安定の弟、但馬守が居城したと伝えられており、宮川一族がこの地方に分散して勢力を張っていたことが窺える。

上笠村は、古代(奈良時代)に美濃守として活躍した笠朝臣麻呂が、積極的に開拓したところに笠の字を当てた地名が多く。笠木、笠縫、笠毛、笠の郷(下笠、上笠)などのうち最も重要な位置を占めているので、その拠点として中世に城があったとも言われているが、地勢的にもそれほどに重要であったかどうか疑間であり一城といっても、それは、武将の館か小規模な砦の程度であったと推測される。

宮川三斎が中山道赤坂宿の野村氏に贈ったという次の書幅があり(野村森三郎氏蔵)   

「野村家を寿ぎて  上笠に運をひらかす野村氏    丸に扇の旗頭なり     宮川三斎詠之印」

美濃本郷城主の流れを汲むと伝えられる国枝氏をはじめ、現在も上笠町に在住する旧家で、野村、国枝、渡辺、西脇の四姓があることなどから、上笠城があったと伝承ざれる時代背景や、その史実解明の手がかりが引き出せないものか、という期待は捨て切れぬ。



18.野ロ城

野口城跡は、現在その位置は判然としない。

古図によると凡そ集落地の北に当る辺りで、その跡と推測される土囲、薮などのあった高地を偲ぷことができる。

天文年間(1532〜54)のころ、三河の国西尾から移ってきた西尾伊豆守信光が、三千貫を領していたという。

信光の子豊後守光教は氏家直元(ト全)の妹と結婚し、直元の旗下に所属していたが、後ち織田信長に仕えて、天正10年信長没後は豊臣秀吉に従って従五位下に叔し、所領も安堵され、さらに同16年稲葉一鉄のあとをうけて曽根城主となり二万石を領した。

慶長5年の関ケ原合戦には徳川家康に従って大垣城攻略に戦功をあげ、その後曽根は廃城となり、光教は揖斐に移って城を築き、一万五千石の加増をうけ、合せて三万五千石を領した。

大垣城主宮川吉左工門尉安定の子、宮川伊勢守安熈は織田信長信忠の父子二代に仕えたあと豊臣秀吉、秀次に仕えていたが、文禄4年(1595)秀次が秀吉の勘気をこうむって高野山で自害したため流浪して野口村に蟄居した。

おそらく西尾氏の去った野口城跡の空き城に閑居していたのではないかという。

西尾氏の遠祖は、丹波国の粧井氏である。兵庫頭光秀が三州西尾に移って西尾氏を名乗り、のち美濃に移って曽根城に住んだとある。

その嗣子直教は美濃の守護斉藤氏の家臣となり、文明・長享のころ大井荘の石包名代官職となったという。

古くから大垣地方に因縁が結ばれていたようである。



19.長松城 

長松城は、大垣市長松町にあった。

現在荒崎小学校に「長松城跡」の標石が建てられているが、ここは同城堀のうちの一部であり、古城図をみると、旧長松村の集落地全体が城郭の形をなしている。

西濃地方でみる限り大垣城のように近世に整備して存在した城郭以外の、いわゆる中世の城として、これだけの規模をもった城の様子がわかる古図の残されているのは少ないであろう。

現在大垣の古城跡二十西ケ所のうち、古図があるのは大垣城、曽根城およぴ長松城の三城のみで、非常に貴重な史常に貴重な史料といえる。

長松城は、はじめ天正のころ、岩手の竹中半兵衛重治の従兄、竹中源助重利が三千石を分知されて城を構えたが、ここは美濃路の要衝に当り、豊臣秀吉も、度々ここに訪れているという。

美濃明細記によると、長松城は村の西にあり竹中源助は後ち伊豆守となり五千石、信長のころ美濃、飛騨のうち四、五百石の代官、天正中に城を築き之れに居す。

秀吉も度々この城に入。秀吉のころ豊後竹田に移り三万五千石を領す。

また府内に移り、伊豆守の子の代に家は没す。」とあるが、他の各書には、文禄3年豊後国東郡高田二万石に移るとある。

竹中氏のあとは「武光式部五千石、秀吉の時代之れに居す。慶長5年8月桑名に退く。関ケ原戦のとき一柳監物之れを守り後ち廃城」と記ざれており、五千石を領して秀吉に仕えた。

慶長5年の関ケ原合戦に、武光式部少輔忠棟は、西軍石田方に味方して城を守ったが、8月17日福束城の応援に参加して敗北、大垣に逃げ帰ったが、石田の態度に不満をもち、同24日に東軍徳川方の軍勢が赤坂に進駐してきたのをみて多勢に無勢では三十六計逃げるにしかずと、その夜のうちに城をあけて桑名の氏家を頼って引揚げてしまったという。

そのあと徳川方の一柳監物が入城したが、戦後は廃城となった。



20.青野城 

今井系図によると、大永5年(1525)6月5日江州の浅井亮政が美濃を侵略したとき、青野国府城主鷹司忠勝の弟康好らは討死した。とあり青野国府城という呼ぴ名がでてくる。

その後、青野城と言われたのは、関ケ原合戦のとき小早川秀秋の家老として、裏切りをした主人公に勤めることに嫌気を覚えて浪人した稲葉正成の子、八左工門正次が元和4年(1618)2月、美濃国で五千石を与えられ、不破郡青野村に居館を設けて住んだためであり、その屋敷を青野城と呼ばれてきた。

以後その弟権之助正吉は、寛永5年5月兄のあとを継ぎ江戸城で旗本寄合に列したが、明暦2年7月、駿府城内で殺害された。

その子三代目領主石見守正休は、廷宝2年御小姓組番頭となっ、栄進して御書院番頭、御近習、若年寄を歴任、知行も加増されて一万二千右を領するに及んだが、貞享元年8月28日、大老堀田正俊を江戸城中で刺殺し、自らもまたその場で殺書され領地没収お家断絶の悲運をみた。

しかし、幕府の最高役人として堀田大老の専恣をにくんで社会的正義のための行為であったとされ、副将軍水戸光圀は、彼を邸に弔間してその死を借しんだという。

稲葉氏の居館跡は取毀されたが、今に本丸とか屋敷などの地名およぴ幕碑、記念顕彰碑が建てられ、また青墓町円長寺の山門は青野城稲葉家門を移築したものと伝えられ、また「稲葉」住宅団地の名も稲葉氏を偲ぷよすがとなっている。



21.赤坂城と谷氏 

赤坂城は、戦国時代未期、美濃国守護土岐・斎藤両家が亡ぴ、織田、豊臣の天下統一が成されてゆくころ、谷七郎左ヱ門源衛友(みなもとのもりとも)が住んでいたところである。

現在大垣市赤坂町子安町の街並から南へ入った史跡お茶屋屋敷の北隣り、正安寺の前の道を隔てた東側一帯が城跡であって「谷屋敷」また「谷殿山(たんだやま)」と呼ぱれていた。

江戸時代未期の赤坂村旧図によると、現在も通用している路地に洛って土囲が築かれ、何筆かに分轄された土地が、畑、薮、屋敷など、すべて谷一族の名儀になっている。

金生山を背景として、中山道を扼し、東に濃尾平野を一望する小高い台地を占めた、地勢的な好条件に恵まれた城跡であることは誰しもうなずけるであろう。

大垣藩地方雑記(じかたざっき)によると「古城址、谷屋敷と云い、町南正安寺の前に之れあり、谷出羽守源衛友居住の地なり。秀吉公のころ一万石余を領し、越中において戦死云々、と記されている。

谷衛友は、天文・永禄年間(1532〜69)織田信長に仕え赤坂に住んでいたが、後ち豊臣秀吉に仕えて出羽守に任ぜられ、丹波(京都府)河鹿郡山鹿城主となり一万六百石を領した。

衛友が住んでいた赤坂城跡には竹木が繁茂し、山脇のところに鎮守杜が祀られ、屋敷の家宅をはじめ長屋門、櫓、物置などの建物は正徳5年(1715)3月25日夜、出火のため書類なども共に焼失してしまったという。

衛友が丹波山鹿藩主として転出後の赤坂城は衛友の叔父出羽守長広およぴ、その子孫がここに住んで谷屋敷と呼ばれていた。

その未裔に当る谷才兵衛は大垣藩に仕え、赤坂筋代官を勤め、また江戸幕府にも取立てられ、役人として出仕した人物も出ており、或はその一族で谷六郎兵衛の孫に当る、大垣の船問屋で俳聖芭蕉と交友の厚かった俳人木因(谷九太夫)も傑出した人物の一人である。

谷氏系図によると、衛友の父は、谷大膳亮衛好といい、美濃守護職土岐政房に仕え、度重なる軍功を賞されて厚見郡鶉(うずら)城(今の岐阜市)に居城していたが、永正元(1504)に死亡し、その子衛友は天正7年(1579)9月20日卒となっており、その長男衛政は大学頭に任ぜられて父のあとを継いで山家城主となり、以後代々子孫が続いて江戸時代を安定している。

赤坂町元町の谷氏所蔵の古文書のうちにも、「丹波山家行出入抽帳」(万延元年)や「丹波行入用隠居改名披露」(安政3年)などの記録には、赤坂宿の土産物を持参し、殿さまをはじめ家老、用人にまで山家藩の幹部役人へも、お勝山の目釘竹、大理石の文鎮、養老扇などの品々を贈り届け、また返礼の品目などが記録されており、当時の武士階級の社交生活の一端を物語っている。

谷衛友は豊臣秀吉に臣従しながらも太閤殿下と言われる天下人の権力にコビヘツラウことなく、気に食わぬことがあると堂々と渡り合って相抗し、あとで秀吉が酒肴を持って謝りに来て仲直りをしたという話も伝えられ、豪勇の大名であったということが偲ばれるが、しかし記録そのものも、また時代考証的にも衛友・衛政や、そのはか一族の誰彼と混同した面も無いとは断じ難い。




22.円興寺城 

平安末期の源平合戦のころ、元暦元年(1184)2月7日、一ノ谷の合戦に参加して戦功のあった里見金太夫は、頼朝からその賞として不破・多芸両郡のうちで十五町歩を与えられ、円興寺城に住んだがさらに安八郡平野庄二十一力村の地頭職に補せられたという。
(養老町口島の田中家文書)

美濃国雑事記には、不破郡、領主里見兵庫助、里見判官代義直より代々これに居す。

大系図に里見判官代、円興寺城に居す。乎野庄地頭と為る云々、とある。

平安未期から鎌倉時代初期にかけて、「円興寺城」と呼ばれたようである。

これは城と呼ぶにふさわしい館、砦などの施設があったかどうか、またその後についても今後の研究に委ねたい。



23.勝山(かちやま)御陣城

一般的にいう城のうちには入らぬが、天下分け目の関ケ原合戦のとき、徳川家康が最初の陣地として、一応は、城と呼ばれた。

徳川幕府が開運の地としての縁りを以て、江戸時代一般的に注目された史跡のお勝山である。

美濃明細記その他にも古城跡として記載されている。

史実顕彰のため採録。





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