水のめぐみ

自噴水


水都・大垣の名称は、なんといっても豊かな自噴水に恵まれていたからである。恒常水温は13度で、夏は冷たく冬は温かい。また適度の硬水であるためにおいしく大垣市民の生活用水は、この地下自噴水(がまと呼ばれた)に頼っている。

河間町のように、大垣輪中の北部には、信濃河間・加納河間・北方河間など「河間」という地名に見られるように、清らかで、おいしく豊かな清水は、人々の暮らしとの関係が多い。河間は、揖斐川上流の地下水が流れて、地表の割れ目から自然に湧き出る泉で、その場所を地名とするようになった。

むかし市内の湧き水は外側町清水橋口の清水・清水町旧松涛寺門前の清水・室清水町の清水の三カ所で、これを「三清水」といった。特に清水橋口は御用井戸となっていた。

   酌む影のそのままうつる清水かな

しかし、現在のようなあまりにも大量の利用は、無尽蔵だと考えられていた豊富な地下水を枯らせる結果となった。
かつては市民に親しまれた大垣公園の百間堀や大垣駅前のカメの池も、見る影もなくなり、各地の河間もほとんど影を消してしまった。


上水道

自噴井戸に頼ってきた家庭用水は限界に達し、昭和34年より順次上水道に切り換えられてきた。現在は、北部・赤坂・西崎・緑園・南部の5水源地から、各家庭に給水されている。

わが家は、西崎水源地から給水を受けています。川の水ではなくて地下水のため夏でもしばらく出していると冷たくなってきますよ。冬は反対に氷のような冷たさはありません。




水と生物



初夏の夜を飾る蛍は、昔は至る所で見られたが、水質の汚濁につれて、餌になるカワニナが少なくなり、現在は、保存会がある南一橋・下塩田など一部でしか見られなくなりました。

トゲウオ科の小型淡水魚のハリヨ(ハリンコ)も清水のあるところに生息していたが、西之川・曽根・領家・矢道などで見られるだけです。

大垣市ではハリヨを鑑賞する場所として「ハリヨ池広場」を西之川町に建設しています。

建設地は昭和40年頃までは自噴水があった場所です。最近、建設地の池の底の穴から地下水が湧き出て(毎分280リットル)関係者を喜ばしています。

「ハリヨ広場」は、敷地約960平方メートル。約80平方メートルの鑑賞用の池があり大垣市は98年4月中の完成を目指しています。

鑑賞用の池には、もちろんこの自噴水が使われます。


湧き水利用の養魚は、東前・領家・矢道・十六の各町で小規模に行われていました。江崎町の西濃総合庁舎付近には、かって県立水産試験場がありました。

蛍は、子供の頃、家の前にたくさんいました。また、ハリンコは小学生の頃に学校側の小川で赤虫の餌で釣っていたことを覚えています。水産試験場へも見学に行きました。40年くらい前ですね。





農業用水

農業用水は、平野井川の水を大島堤防樋門より取り入れる柿之木戸用水・菅野川より取水する興福池用水・杭瀬川より取水する山王用水や下立用水・宇留生用水によっています。
その他北部では、曽根湧水・加納湧水を利用している。また、揖斐川岡島より取水される西濃用水は、昭和59年度から本格的に活用されるようになった。



水との戦い

水害

昔からこの地域は、水害が多く、特に江戸時代には尾張(愛知県)側に有利な御囲い堤(美濃よりも1m程高い)が造られた。また新田の開発も進み輪中の増加につれて洪水の被害は、次第に大きくなった。

宝暦5年(1755)の薩摩藩による三川分流工事、さらに明治になってからオランダ人のヨハネス・デレーケ技師による完全分流工事と強固な堤防工事によって、水害は少なくなってきた。ところが小規模な堤防の決壊や内水の被害は絶えなかった。

昭和34年の伊勢湾台風、また昭和36年の第2室戸台風による水門川の決壊では、市内の約3分の2におよんで浸水するなど、大きな被害を受けた。最近では、昭和51年9月12日に長良川増水のため安八町で堤防が決壊した。大垣市内でも各地で河川があふれ、床上4541世帯、床下9725世帯が浸水して53380人が被害を受けました。

写真は、多芸島にある決壊守護神の碑(水神さん)です。


輪中

輪中は、短い期間に成立したものでなく、人々が洪水対策を進めていく過程の中で生まれてきた。いわば、生きるための生活の知恵の所産といえよう。自分たちの家や耕地を洪水から守るために、小さな堤防を川の上流に馬蹄形の尻無し堤を造った。こうして、周囲をぐるりと堤防で囲まれた集落や耕地を輪中という。

大垣輪中も、まず揖斐川や杭瀬川の出水から大垣を守るために大島堤・前田堤・笠縫堤が造られ、その後、下流地帯にも江戸時代初期に堤防が造られて出来た。大垣輪中のように、いくつもの輪中が重なって出来ているものを複合輪中という。古宮輪中・中之江輪中・禾森輪中・伝馬輪中・今村輪中などの小輪中があり、江戸時代には低湿地の開発が進み、排水路の堤防や部分的な堤を造る中で成立したと思われます。

水防

輪中は、集落や耕地の周囲を堤防で巡らしているだけでなく、自分たちの輪中は自分たちで守るのだという意識が有り大切な支えとなっている。これが、良い意味での「輪中根性」といえよう。大垣市の場合、揖斐川・水門川など14河川の延長は76km余におよび、大垣輪中水防事務組合が管理に当たっている。しかし、堤防沿いの集落では、今も雑草刈りなどをして守っている。

水防倉庫は、かって堤防が決壊した場所に多く位置し、倉庫の中には、杭・掛矢・縄・鉄線・蛸槌等の資材が収納されています。

写真は、浅草町の水防倉庫です。このような水防倉庫は、堤防にたくさんあります。



遊水池

治水の方法にはいろいろある。技術の十分でなかった江戸時代には、自然に逆らうことを避けて被害を少なくしようと工夫して、河川の合流点に水勢をゆるめる遊水池を設けた。

新規川と中之江川では難儀場に、中之江川と水門川では広芝がそれである。また杭瀬川では耕地を含んで堤防を設けて遊水池としている。更に、所によっては無提地や堤防を意図的に低くした所がある水位が一定以上になると、水は片方に流れ込んで遊水池の役割を受け持つようになっている。

揖斐川における斉田・柳瀬地区や大谷川における十六地区がそれである。一番小さい十六輪中は、こうして出来上がり、歴史的な所産である洗いぜきは、今もその役割を果たしている。

写真は、十六町に設けられたコンクリート製の洗いぜきです。



水防倉庫と排水機


水防活動に必要な資材や機具を保管していて郷倉とか諸式庫といい、市内では堤防の上に40余ヶ所ある。輪中は、外からの水を防ぐが内部湛水を除くのは難しい。昔は、堤防や川底を掘って樋管を埋めた「伏越樋」を使った。この場合、堤外地には迷惑料として「江下げ米」を払った。

現在の排水は、伏越樋も各所に残っているが、強力な排水機による強制排水となっている。大垣市内には、水門川や大垣北部・南部など大小20ヶ所に排水機が有り市民を洪水の害から守っている。

写真は、大垣最南端にある水門川の排水機場(横曽根)です。


水屋

水屋は、輪中を特色づける建物。主に屋敷の西北部などで、一段と高く積み上げられた石垣の上に建てられている。普段は、離れ家や倉庫として使う程度であるが、いったん洪水になると、母屋に変わって長期にわたる生活をした。それで貴重品はもちろん食料や日常の生活用品が、常に保管されている。

水屋の土台の高さは、地域によって異なっているが、一般に南部ほど高く、明治29年の侵水点を基準にしているといわれている。現在建築される家が、9・12水害の侵水点を元にして建てられているのと比較すると興味が深い。

水屋のある家は、昔でも少なく地主たちなどに限られていた。現在は、日常生活にほとんど使われていないので次第に取り壊されて姿を失ってきた。比較的、下流域に多く残っている。

写真は、浅草町に残っている立派な水屋です。



上げ舟

洪水時に備えて、母屋の軒先や土間、水屋などに「上げ舟」が上げてあった。昔は、よく見受けられたが、現在でも所有している家は、西濃地帯では数える程しかない。

排水機が完備するまでは、大型台風の時は、大垣南部では浸水が多かったがこの十何年間は皆無です。我が家は、幸い大垣の中心のそれも少し盛り上がった場所のため生まれてこの方浸水は経験していませんが伊勢湾台風の時は、玄関寸前まで水が来ました。この時は、大垣のほとんどの家が浸水でした。



上げ仏壇

輪中に住む人々は、水害から自分たちの生活を守るため色々な対策をしています。
母屋では、先祖から大切にしている仏壇をすぐに二階へ上げることができるように滑車を取り付け、天井板を取り外せるようにした「上げ仏壇」にした家もあります。また、庭には柿木を植えて舟をつなぐことができるようにもしました。これを船繋ぎの木と呼んでいます。

写真の仏壇は、上に滑車とロープが取り付けて有り二階に上げられるようになっています。
大垣市輪中館に展示されています。



堀田

輪中内の低い水田地帯に多く見られたが、今では全くなくなった。連年の洪水や甚水による不作をさけるために、田の一部を掘って積み上げ、高くして耕作した。掘った所は「掘りつぶれ」の沼となった。水害に苦しむ農民の土との戦いの所産でもあった。

私の小学生の頃は、大垣南部には、この堀田が多くそこでフナ釣りをするのが春と秋の楽しみの一つでした。この堀田を水路として利用していたのが記憶に残っていますが、現在は、埋め立てられほとんど残っていません。

写真は、昭和41年頃の堀田の風景です。稲刈りをした後で人々が稲を束ねています。模様になっているのが稲の束です。その間の白く写っているのが堀田です。



水神

水害に悩み苦しんできた輪中の人々は、堤防が切れないように、洪水から守ってもらおうと水神(水神さん)を堤防上に祀ってきました。(輪中堤の上に見かける小さな祠がそうです)

水神は、堤防の上や高く盛り土をしたところに多く建てられています。このことは、洪水のとき直ちに避難場所にできるという助命壇の役割を果たしています。

水神は水難除けの守護神、いうならば堤防守護神であり大垣市直江町の揖斐川堤防上の水神には「五穀豊穣、堤防安全」とあります。また多芸島の杭瀬川のには「決潰守護神」と刻まれています。

これら水神の立地する場所の大半はかっての決潰地であり、そのお祭りの月日は堤防の決壊した日であります。多芸島の水神は9月8日が祭日であるが1896年(明治29年)のこの日に決潰している。また十六町の相川堤上の水神の祭日は7月16日の夜中に行われているが、この日のこの時刻に相川が決潰したのです。




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