治水への取り組み

                         治水への取り組みシリーズ 

「水都」大垣を住みやすい故郷とするために古くから多くの先人達が治水事業に取り組んできました。
ここでは、大垣市輪中館から出版されている「輪中」を参考にして先人達の偉業を照会してゆきます。
もっと詳しく知りたい人、興味を持たれた人は、立体的な模型、色々な資料などが展示されていますので一度見学されると良いですよ。
大垣市輪中館
開 館   9時〜17時
休館日   毎週月曜日午後・火曜日
       祝日の翌日
入館料   無料
場 所   大垣市入方2丁目1611−1
          0584−89−9292   fax0584−89−9172



1.大垣藩の治水



 ・大垣初代藩主戸田氏鉄と清水五右衛門

寛永12年(1635)7月、尼崎より移封を命ぜられた戸田氏鉄は、大垣へ入部すると領内をつぶさに見回り、藩統治に力を注ぎ、中でも領民安定策として治山治水に努めました。

また、藩財政の基礎を固めるために新田開発を進めるなど藩政の実をあげました。


 ・氏鉄は、寛永13年(1636)に川口、外渕村境に小規模な門樋を造りました

水門川は、下流で揖斐川に合流するので、揖斐川が増水すると下流からの洪水が逆流して輪中内に浸水して被害が増えました。

そんな中で川口水門樋は逆水を防ぐ働きをするものです。

これを造るに当たっては、氏鉄の家臣の清水五右衛門が、かって九州の小倉で海水の進入を防ぐために水門を設けられたことを進言し、此の提案を氏鉄が取り入れて造ったといわれています。

写真は戸田氏鉄公です。


・慶安寅年(けいあんとらのとし)の大水
慶安3年(1650)、大垣城の上から見渡せば岐阜から養老まで一面の海となり、多くの被害が出る大洪水が発生。

其の翌年の11月、水門の門樋改造の計画に取りかかり、幕府の許可を得て、承応2年(1653)7月今福地内に通称「川口村水門」と呼ばれる閘門(こうもん)を造って洪水に備えました。

此の水門は屋根があり城門のようなもので、当時の我が国では最もすぐれた水門と言われていました。これが造られた後、大垣城の外堀を延長した牛屋川が、いつの頃か水門川と呼ばれるようになりました。

現在「史跡旧水門跡」の石柱を建て、其の場所を示しています。

写真は川口水門普請絵図です。(岐阜県歴史資料館蔵)



・大垣第7代藩主戸田氏教と伊藤伝右衛門

安永・天明の頃(1772〜1788)、大垣藩内はよく水害に見舞われました。

輪中を挟む揖斐川と牧田川の合流点の辺りは、川床が田畑より高い天井川でした。

大垣輪中の南北は高低差が7.5mも有り、低い南部地方は悪水がよくたまり、作物がほとんど採れない不毛の地となり人々は苦しみました。


・鵜森伏越樋の完成
第7代藩主氏教は、浅草・横曽根村の現地の様子を見て、治水対策に取りかかりました。まず、排水路を造る計画を立てさせ、治水工事に秀でる伊藤伝右衛門に鵜森地内揖斐川川床下に伏越樋(排水用の木造トンネル)を造る工事を命じました。

伏越樋とは浅草三郷(浅草・浅中・浅西)と横曽根・外渕の5ヶ村及び古宮筋の悪水を一ヶ所に集めて揖斐川の下流に流し出すために、横曽根東と鵜森北の揖斐川の川床下に木造トンネルを埋め、塩喰村地内を借地して排水路を設けて輪中の外へ水を流すという大規模な工事です。

此の工事の責任者となった伊藤伝右衛門は、3年の月日、7200両という莫大な費用をかけ工事を天明4年(1784)に完成しましたが、設計上の誤算で悪水が輪中内にたまり失敗に終わりました。

しかし、伝右衛門はくじけず、再び挑戦し天明5年に完成させ、伝右衛門の造った伏越樋はそれ以後明治38年(1905)の河川工事によって不要になるまで120年間機能しました。



・伊藤伝右衛門
伊藤伝右衛門は、寛保元年(1741)、安八郡西條村(現・輪之内町楡俣)の農家の次男として生まれ、17歳の時大垣藩士・伊藤作之丞の養子となり、天明元年(1781)郡奉行となる。

当時郡奉行は4人おり、そのうちの河川修築係を務める。

天明5年5月23日自宅で自害する。工事の責任をとっての自害と言われている。

伝右衛門の墓は、東小学校の西にある回向院(三塚町)に、輪之内町塩喰の鵜森神社には、功績をたたえる碑が建っています。



水のめぐみ             治水への取り組み(2)