「水都」大垣を住みやすい故郷とするために古くから多くの先人達が治水事業に取り組んできました。
ここでは、大垣市輪中館から出版されている「輪中」を参考にして先人達の偉業を照会してゆきます。
もっと詳しく知りたい人、興味を持たれた人は、立体的な模型、色々な資料などが展示されていますので一度見学されると良いですよ。
大垣市輪中館
開 館 9時〜17時
休館日 毎週月曜日午後・火曜日
祝日の翌日
入館料 無料
場 所 大垣市入方2丁目1611−1
0584−89−9292 fax0584−89−9172
1.大垣藩の治水
・大垣初代藩主戸田氏鉄と清水五右衛門
水門川は、下流で揖斐川に合流するので、揖斐川が増水すると下流からの洪水が逆流して輪中内に浸水して被害が増えました。 |
・慶安寅年(けいあんとらのとし)の大水慶安3年(1650)、大垣城の上から見渡せば岐阜から養老まで一面の海となり、多くの被害が出る大洪水が発生。 |
・大垣第7代藩主戸田氏教と伊藤伝右衛門
安永・天明の頃(1772〜1788)、大垣藩内はよく水害に見舞われました。
輪中を挟む揖斐川と牧田川の合流点の辺りは、川床が田畑より高い天井川でした。
大垣輪中の南北は高低差が7.5mも有り、低い南部地方は悪水がよくたまり、作物がほとんど採れない不毛の地となり人々は苦しみました。
・鵜森伏越樋の完成第7代藩主氏教は、浅草・横曽根村の現地の様子を見て、治水対策に取りかかりました。まず、排水路を造る計画を立てさせ、治水工事に秀でる伊藤伝右衛門に鵜森地内揖斐川川床下に伏越樋(排水用の木造トンネル)を造る工事を命じました。 |
・伊藤伝右衛門 |