古寺を訪ねて
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美濃国分寺跡・歴史民俗資料


  


国分寺・国分尼寺は、国家の泰平を願って天平十三年(741)聖武天皇の勅願によって全国に建立された。現在全国60余カ所の遺跡のうち、美濃国分寺跡だけが寺全体が整備され、全国に誇る文化遺産となっている。

歴史民俗資料館は、国分寺造営当時の史料や古代の遺物、民俗資料を展示し、歴史学習の拠点となっている。美濃国分寺資料館の奥に古いたたずまいを見せて美濃国分寺がある。江戸時代に発見された本尊の薬師如来像(3.09m)は、別名「馬だらい薬師」久しく土中にあって、それとも知らず背中の窪みで馬の脚を洗ったりしていたからその名を残す。ケヤキの一木彫で創建当時の作と伝えられ、一木彫成の木造薬師如来像として日本一の大仏様である。国指定重要文化財である。




円興寺


延暦9年(790)伝教大師の創建と伝えられる。

お告げの霊木に彫刻した聖観音像を本尊(国重要文化財)に祀っている。県下最秀作といわれる貞観弘仁仏である。

源氏一族の菩薩所として地方屈指の古刹といわれたが兵火にかかり焼失した。しかし、現在も古いたたずまいを残している。

現在の円興寺の位置は、東三道時代の三大宿の一つ青墓宿があったところと推定される。この地は平安時代に庶民の間で流行した今様(日本歌謡の源流)の一大拠点であった。

付近は憩いの森もあり散策に適している。まわりの植物を見ながら登ると、展望台付近には源朝長の墓や元円興寺の仁王門、金堂跡などがあり、墓に詣でた芭蕉の句碑が建っている。


  埋む 蔦のうつつの 念仏かな    芭蕉





金生山明星輪寺

金生山の名は明星輪寺の山号である。

持統天皇の勅願寺として創建された古刹のイメージに重なって興味を呼ぶ。

昔から伊勢朝熊山の朝虚空蔵、京都嵯峨野の昼虚空蔵とともに美濃赤坂の宵虚空蔵と言われ日本三大虚空蔵として有名。

本寺および付近一帯は、指定の文化財が多く地理、歴史、理科などの学習と、濃尾平野を眺望する絶好の場所である。

「こくぞうさん」と親しまれている。


  鳩の声 身に入りわたる 岩戸哉   芭蕉



正円寺

静里町の正円時境内にある経塚は、平安時代の終わりの頃仏教で言う末法思想の普及に伴い、各地の聖地・霊場につくられたものの一つである。






徳勝寺(青柳町)

鐘楼は鎌倉時代に蒙古襲来の国難打開を神仏に祈願して鋳造された。

弘安4年(1281)の銘があり、美濃一宮南宮神社から大垣八幡神社を経てここに安置した。

国指定重要文化財となっている。




報恩寺

綾野報恩寺の木彫り「薬師三尊十二神将像」は、永い間人知れず眠っていたものが発見されたものである。

江戸時代初期、遊行の仏師円空の鉈彫り作で、十二将神は、頭部に「えと」の図柄が刻まれており比類の少ない秀作と高く評価されている。




宝光院と聚楽寺

毎年2月の節分会の豆まき行事と、杭瀬川の寒流にみそぎする裸祭りで有名な野口の宝光院は、小説「恩讐のかなたに」の僧・禅海の修業時代の話とまつわる駆け込み寺の伝説や文化財も多い。

隣の聚楽寺は高倉天皇勅願の史跡であり、また真宗開祖親鸞聖人ゆかりの寺である。




御首神社(荒尾町)

天慶の乱(940)に滅ぼされた平将門の首を祀る。

首から上の病気や怪我を治し知恵も授かると信じられている。

古墳の上に社殿が建てられ、美濃紙を司る宇保明神が祀られていたという秘話もある。




如来寺

長野・善光寺の建立にかかわった本多善光がここで「昼飯・ひるめし」をとったことから「昼飯・ひるい」の地名を残したと伝えられている。

御本尊は「善光寺式弥陀三尊仏」




お勝山と安楽寺

慶長5年(1600)9月14日天下分け目の決戦の前日東軍徳川家康がこの山に最初の陣を構え、大垣城の西軍石田光成方に対陣したところ。

「岡山」の名を勝った記念に「勝山」と改め、更には家康の側室お梶の方も「お勝の方」と改名した。

安楽寺は聖徳太子の創建で徳川家の三つ葉葵の紋を許された。

江戸時代、忠臣蔵で有名な赤穂城明け渡しの功労者大垣藩家老戸田権左エ門の墓をはじめ史跡文化財が多い。



大垣八幡神社

奈良時代の昔から東大寺領であった大垣をはじめ安八郡十八か村の総氏神として祀られてきた。

例大祭は大垣祭りと呼ばれ華やかな祭典が繰り広げられ、庶民文化のシンボルとして親しまれる13両の山車のうち、戦災に残った9両がけんらん豪華を誇って祭りを盛り上げて、にぎわっている。


折々に 伊吹を見ては 冬ごもり   芭蕉




子安神社

徳川3代将軍家光が世継ぎ誕生を祈願して御利益があり、それ以来将軍家のお目出度毎に境内の竹薮の竹で安産祈願の竹刀を献上した。

境内に子授けまたぎ石がある。




春日神社






NHKドラマ「春日局」ゆかりの地(県指定重要文化財)
神社は、奈良・春日大社の分社でありまして、春日四柱の大神様がご祭神です。

四柱の大神とはどなたになるかといいますと。まず茨城県鹿島神宮の武甕槌命(たけみかづちのみこと)と千葉県香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)は藤原氏の氏神にあたります。そして大阪河内の枚岡神社(ひらおかじんじゃ)の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)は藤原氏の祖神になります。

この四柱大神を平城京鎮護の神として御笠山に祭ったとされるのが神護景雲二年すなわち768年11月9日といわれています。

春日社はその後、氏神信仰や荘園制度とともに広がりますが、現在は春日大神を祭る神社は境内社も含めると全国で7000社にのぼるという調査報告もあります。

一間社流れ造りのこの社は規模こそ小さい乍ら浜床・側面二重虹梁・二重向拝・唐破風・懸魚に加えて上面に施された二十四孝の彫刻等は江戸期の特徴を遺憾なく発揮しいずれも見事な物であります。

曽根城主であった春日局(お福)の叔父、稲葉一鉄はこの城内と目と鼻の先に建っていた寂れた祠をながめ氏・百姓・一村の氏神を疎かにしておいてはなるまいと意を決して修復したと伝えられています。

本殿は寛文7年(1667)の建造で左右の袖には南画的な人物・本殿を包む柱や壁には、いろいろな動物など多彩な彫刻が施され社殿全体に白・緑・赤・青に彩色されている。

本殿前に現存する拝殿も同時期の建造物と思われ内部の各天井には絵画も施されている。

平成3年にいたみが著しくなったので修理と彩色を施し平成5年11月県重要文化財に指定された。





大垣の文学               大垣のシンボル大垣城