治水への取り組み(2)





2.宝暦治水

木曽川・長良川・揖斐川が氾濫して起こる水害に対して、宝暦3年(1753)12月、江戸幕府は、美濃の水害を防ぐために木曾三川の流れをよくすることを基本とした治水工事を、美濃国から遠く離れた薩摩藩(鹿児島県)に行うよう命じました。

薩摩藩は、平田靭負(ゆきえ)を総奉行として947人の薩摩藩の武士を率いて工事にあたりました。
なかでも、大榑川(おおぐれがわ)川口に洗堰(あらいぜき)を造る工事と油島での木曽川と揖斐川とを分ける堤防を造る工事は、特に困難な工事でした。

写真は、治水神社に建っている宝暦治水の碑です。


(1)大槫川の洗堰

川床の高い長良川の水が、大槫川へ強く流れ込むのを防ぐため、大槫川入り口に洗堰を造りました。
洗堰は、水かさが増えてくると堰の上を水が越えて流れる仕組みになっています。



(2)油島の喰違堰(くいちがいぜき)

油島付近で合流する木曽川、揖斐川の川床は1.8m程の差があるため、水かさが増えたとき木曽川の水が揖斐川に流れ込み、揖斐川沿いの村々の被害を大きくしていました。

工事はここに上流から約900m、下流から約360mの喰違いに堤を築き、川の流れを二分するものでした。

此の工事は、思いもよらぬ40万両という巨費と、幕府の役人とのもめごとや工事の責任をとって切腹した51人及び伝染病にかかって病死した33人の薩摩藩士の犠牲者を出すという難工事でした。

工事は多くの困難に打ち勝って宝暦5年(1755)3月に完成しました。平田靱負は、藩の財政が苦しくなったことと多くの藩士の犠牲を出した責任を一身に負って、同年5月25日に自害しました。

現在の千本松原(海津町油島)は、油島堤が出来上がった後に、其の堤の上に多くの「日向松」を植えたものと伝えられています。また、平田靱負と薩摩藩士84人を祭る治水神社(海津町油島)が昭和13年(1938)に建立されました。

治水史上、最大の難工事と言われ、これを「宝暦治水」と呼び、永く、其の精神と偉業をと尊び称えています。


(3)金森吉次郎(1864〜1930)

元治元年(1864)11月29日、大垣市魚屋町にて金四郎の次男として生まれました。

15歳の時、金原明善(静岡県)の記事に感動を受けて、「水を治むるもとは山を治むるにあり」と治山治水に尽くすと共に、昔のすぐれた人々のすばらしさを明らかにする事業や教育文化を盛んにする事業を行いました。

ことに、明治20年からの木曾三川分流工事には、難問題の解決のために大垣輪中の代表として、政府・国会に意見を申し立てたり、嘆願するなど熱心に取り組みました。


また、明治29年(1896)の大洪水の時、大垣輪中に浸水した水を引かせるために、横曽根の堤防を切り割り八千戸の家と4万人の人名を救った決断はよく知られています。

そして、明治32年(1899)12月10日、桑名海蔵寺において薩摩義士追弔大法会を行い、明治33年には千本松原に宝暦治水碑を建てて埋もれた先人平田靱負の功績を世に知らせました。また、明治40年9月、鵜森地内に伊藤伝右衛門の恩に報いる一つの記念として「殺身仁民」の碑を建てるなど治水功労者の功績を称え広く世に紹介しました。さらに、大垣城の石垣に洪水点を示した碑を建てて、明治29年(1896)の大水害の恐ろしさを後世の人々に伝えるようにしました。




3.三川分流工事

(1)三川分流工事(明治改修)

今から10年ほど前の明治時代になって、国は、オランダ人技師ヨハネス・デレーケを招いて三川分流工事を行いました。
デレーケは、洪水の激しかった箇所をはじめ、水源や流域の支流の様子をくまなく調査し、三川の分流と水源地の植林・山林の保護・砂防工事などが必要であることを強く出張した。

国は、デレーケの計画に基づいて、明治20年(1887)から木曽川下流改修工事を始めました。合流して流れていた木曽川と長良川との間に堤防を造り分流させる工事・新しく川を造り流れを変える工事・木曽川、長良川、揖斐川をつないでいた川を締め切る工事等が行われました。

これは三つの川の流れを別々にするものでした。

工事は、計画より遙かに遅れ、着工から25年の歳月をかけ、当時として巨額な974万円を使っての大事業でした。

此の木曽川下流改修工事によって、洪水被害は大幅に減少し、不毛の土地であった西濃一帯も今日のような発展を見ることが出来るようになりました。また、此の近代的な治水工事が成功したため、その後の河川改修工事の手本ともなりました。



(2)ヨハネス・デレーケ(1842〜1913)

オランダのコリンスプラートに生まれ、近代化を急ぐ明治政府の招きにより、土木技師団の一人として明治6年(1873)、31歳のとき来日しました。

それ以来、オランダへの帰国の途につく明治36年(1903)60歳までの30年間にわたり、全国各地で河川改修、港湾計画、砂防工事などに西欧近代技術を取り入れた指導をしました。

デレーケは、日本の現実の国土の上で、熱心でまじめに課題と取り組み、とりわけ、木曽川下流改修において大きな成功を成し遂げ「日本の治水の恩人」と言われた。

人々は、昭和62年(1987)に愛知県海部郡立田村船頭平に銅像を建てて、其の功績を称えました

写真は、来日の頃(31歳)のヨハネス・デレーケ






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