俳聖芭蕉翁(3)

                         俳聖 芭蕉翁シリーズ     



奥の細道

  江戸に帰った芭蕉は生涯の大事をかけて決行しようとしていた奥州への旅を計画した。

この長旅の行脚は芭蕉が随分早くから心にえがいたもので、ことに松島はあこがれの地でもあった。

しかし、芭蕉は単なる物見遊山に旅を試みる人ではなかった。いずれの旅もそうであったように「宇宙は万物の逆旅なり」とする深い人生哲学に根ざして、この心情を文学に表現しようとした。

元禄2年3月27日、曾良を伴って千住から第一歩を踏み出した芭蕉は日光、白河、仙台、平泉、酒田、金沢、福井を経て大垣を最終地点とした。

「奥のほそ道」の冒頭に示された「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり、舟の上に生涯を浮かべ馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす・・・・・」の名文に始まる紀行文は人生も結局は旅のようだという無常観に立脚するものである。

そうした無常観をかみしめながら、「無能無才にしてこの一筋につながる」ことに生の歓びを求め続けた芭蕉であった。

この旅によって芭蕉は「不易流行」への芸術観を結実させ、新しい誹諧への視界を開くことになる。


  芭蕉筆跡 「自然」   上野市庁舎前に碑が建っています。

以下の文献にて、奥の細道を辿ってみました。

 ・岩波文庫  芭蕉 奥の細道  萩原恭男 校注

 ・奥の細道を辿る 絵巻  著者 長野寂
   「奥の細道」むすびの地記念館にて購入できます。

 ・記念切手「奥の細道シリーズ」

    


【序章】

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふるものは、日々旅にして
旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいずれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、
去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の
関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの
手につかず、もゝ引の破をつづり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先
心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

   草の戸も住替わる代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。


【旅立ち】 3月27日(新暦5月16日)

弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、
不二の峯幽にみえて上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云う所にて船をあがれば、
前途三千里のおもひ胸にうさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

   行く春や鳥啼魚の目は泪

 是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげの
みゆる迄はと見送なるべし。



【草加】

ことし元禄二とせにゃ、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉点に白髪の
恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだ見ぬさかひ、若生きて帰らばと定なき頼の末を
かけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。
只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるは
さりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。


【室の八島】 3月28日(新暦5月17日)

室の八島に詣す。
同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。
無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。
又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。


【仏五左衛門】 4月1日(5月19日)

卅日、日光山の麓に泊る。
あるじの伝けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、
一夜の草の枕も打解て休給へ」と云。
いかなる仏の蜀世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、
あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。
剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。


【日光】

卯月朔日、御山に詣拝す。
往昔、此御山を「二荒山」と書きしを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。
千歳未来をさとり給ふにゃ、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、
四民安堵の栖穏なり。
猶、憚多くて筆をさし置きぬ。

     あらたうと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

     剃捨て黒髪山に衣更     曾良

曾良は河合氏にして惣五郎と云えり。
芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。
このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、
旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五郎を改て宗悟とす。
仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。
廿余丁山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。
岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

     暫時は滝に籠るや夏の初


【那須】 4月2日(新暦5月20日)

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。
遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。
農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。
そこに野飼の馬あり。
草刈おのこにたげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。
「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うひうひ敷旅人の道ふみたがえん、
あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給え」とかし侍ぬ。
さいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。
聞なれぬ名のやさしかりければ、

     かさねとは八重撫子の名成べし     曾良

頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。


【黒羽】 4月4日(新暦5月22日)

黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。
思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など伝が、朝夕勤とぶらひ、
自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、
犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。
それより八幡宮に詣。
与市扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、
感応殊しきりに覚えらる。
暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と伝有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。

     夏山に足駄を拝む首途哉


【雲巌寺】

当国雲岸寺のおくに、仏頂和尚山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵
   むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。
其の跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、
若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。
山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したヾりて、卯月の天今猶寒し。
十景尽る所、橋をわたつて山門に入。
 さて、かの跡はいづくのほどにゃと、後の山によぢのぼれば、石上の小菴岩窟にむすびかけたり。
妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごしとし。

      木啄も庵はやぶらず夏木立

と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。


【殺生石・遊行柳】 4月11日(新暦5月29日)

是より殺生石に行。
館代より馬にて送らる。
此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。
やさしき事を望侍るものかなと、

     野を横に馬牽むけよほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。
石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
 又、清水ながるゝの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。
此所の郡守戸部某の、「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、

今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

     田一枚植て立去る柳かな


【白川の関】 4月20日(新暦6月7日)

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。
「いかで都へ」と便求しも断也。
中にも此関は三関の一にして、風騷の人心をとヾむ。
秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。
卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。
古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとヾめ置れしとぞ。

     卯の花をかざしに関の晴着かな     曾良


【須賀川】 4月22日(新暦6月9日)

とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。
左に会津根高く、右に岩城相馬三春の庄、常陸。下野の地をさかひて山つらなる。
かげ沼と伝所を行に、今日は空雲で物影うつらず。
すか川の駅に等窮といふものを壽て、四,五日とゞめらる。
先「白河の関いかにこえつるや」と問。
「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。

     風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。
橡ひろふ太山もかくやと閧ノ覚られて、ものに書付侍る。
其詞、

   栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、
   行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

     世の人の見付ぬ花や軒の栗


【あさか山】 4月29日(新暦6月16日)

等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有。
路より近し。此あたり沼多し。
かつみ刈比もやゝ近うなれば、いずれの草を花かつみとは云ぞと、人々に壽侍れども、更知人なし。
沼を壽、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。
二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。


【しのぶの里】 5月1日(新暦6月17日)

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行く。
遙山陰の小里に石半土に埋てあり。
里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、
此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云う。
さもあるべき事にゃ。

     早苗とる手もとや昔しのぶ摺


【佐藤庄司が旧跡】

月の輪のわたしを越て、瀬の上と伝宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一理半計に有。
飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と伝に尋あたる。
是庄司が旧館也。
麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、叉かたはらの古寺に一家の石碑を残す。
中にも二人の嫁がしるし、先哀也。
女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。
堕涙の石碑も遠きにあらず。
寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀・弁慶が笈をとヾめて什物とす。

     笈も太刀も五月にかざれ帋幟

五月朔日の事也。


【飯塚】 5月2日(新暦6月18日)


其夜飯塚にとまる。
温泉あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。
灯もなければ、いろりの火かげに寝所をまうけて臥す。
夜に入て、雷鳴雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。
持病さへおこりて、消入計になん。
短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。
猶夜の余波、心すゝまず。
馬かりて桑折の駅に出る。
遥なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、
道路にしなん、是天の命なりと、気力聊かとり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。


【笠島】 5月3日(新暦6月19日)

鐙摺、白石の城を過、笠島の郡に入れば、藤中条実方の塚はいづくのほどならんと、
人にとへば、「是より遙右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社、
かた見の薄、今にあり」と教ゆ。
此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、
箕輪笠島も五月雨の折にふれたりと、

     笠島はいづこさ月のぬかり道

岩沼に宿る。


【武隈】

武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。
根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。
先能因法師思ひ出。
往昔、むつのかみにて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにゃ、
「松は此たび跡もなし」とは詠たり。
代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、
めでたき松のけしきになん侍し。

   「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白の伝ものゝ餞別したりければ、

     桜より松は二木を三月越し


【宮城野】 5月4日(新暦6月20日)

名取り川を渡て仙台に入。
あやめふく日也。
旅宿をもとめて、四、五日逗留す。
爰に画工加右衛門と云ものあり。
聊心ある者と聞て、知る人になる。
この者、年比さだからぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。
宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。
玉田よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。
日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。
昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。
猶、松島塩がまの所々画に書て送る。
且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。
さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。

     あやめ草足に結ん草鞋の緒


【壷の碑】

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。
今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
   壷碑  市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺計歟。
苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。
「此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也。
天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣あさかり修造而。
十二月朔日」と有。
聖武皇帝の御時に当れり。
むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、
石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、
其跡たしからぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を覧す。
行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。


【末の松山】

それより野田の玉川沖の石を尋ぬ。
末の松山は、寺を造て末松山といふ。
松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が島もほど近し。
蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。
其夜盲目法師の琵琶をならして、奥上るりと伝ものをかたる。
平家にあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。


【塩竃】 5月8日(新暦6月24日)

早朝、塩がまの明神に詣。
国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。
かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。
神前に古き宝燈有。
かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎寄進」と有。
五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。
渠は勇義忠孝の士也。
佳命今に至りて、したはずといふ事なし。
誠「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。
日既午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。


【松島】 5月9日(新暦6月25日)

そもそもことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ず。
江の中三里、浙江の潮をたヽふ。
島々の数を尽くして、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。
あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。
負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。
松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。
其気色エウ然として、美人の顔を粧ふ。
ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにゃ。
造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
雄島が磯は地つづきて海に出たる島也。
雲居禅師の別室の跡。坐禅石など有。
将、松の木陰に世をいとふ人も希々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

    松島や鶴に身をかれほとヽぎす   曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。
旧庵をわかるヽ時、素堂、松島の詩あり。
原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。
且、杉風・蜀子が発句あり。
十一日、端岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。
其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。
彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。




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