俳聖 芭 蕉 翁

三重県の伊賀上野にある芭蕉翁記念館へ行って来ました。
芭蕉翁顕彰会発行の「俳聖芭蕉翁」より抜粋しています。

                         俳聖 芭蕉翁シリーズ    


生い立ち







 
芭蕉は寛永21年(1644)甲申の年に生まれました。

その年の12月23日年号は正保と改められた。もともと、之は翁の没年などから逆算して知り得たことであり、生まれた月日は明瞭に伝えられていません。

生まれた所は伊賀上野の城下、赤坂の街、現在の三重県上野市赤坂町であります。

伊賀の風土



















伊賀の国は地質学上、古琵琶湖層群とよばれる湖盆の国原で、四周を山に囲まれ伊賀一国からなっている。盆地の中央やや北寄りに浸蝕からとり残された上野台地がある。

この台地は中世末まで集村の形成をみない荒野であったが、北辺の高所には後白河法皇の勅願を承って平清盛が造営したと伝えられる上野山平楽寺、薬師寺の二院が建てられ教学の聖域となった。

この縁起は古代伊賀における平氏一門の繁栄を物語るものである。ところで平氏には諸流がある。伊勢平氏の始祖平維衡は寛弘3年(1006)伊勢守に叙されて任地に勢力を拡げた。維衡の子は正度である。長男は維盛、四男は安濃津左衛門尉貞衡と名乗り伊勢平氏の正統をつぎ、五男は出羽守正衡と称した。

その頃、平氏の一族が鈴鹿山を越えて伊賀に住み、所領を拡張して強力な武士団を形成した。平氏の勢力が伊賀の各地にのぴると、伊賀で古代氏族の流れをくむ服部氏はともに平氏を称し、平氏の諸流は伊賀の全土に割拠した。

芭蕉の祖先と伝えられる弥兵衛尉平宗清も伊勢平氏正度の次子駿河守貞季流であり、貞季の次子正季から範季−季房を経て、季房の嫡子有兵衛季宗の子が宗清である。季房の次子筑前守家貞は伊賀国鞆田庄現地代官として在地に住み、嫡子家次は伊賀国山田庄平田に住んで平田冠者と称した。

これらの一族は寿永3年(1184)6月鎌倉幕府の守護職大内惟義が伊賀に下向すると惟義を攻めた。幕府は加藤五景員、首藤経俊を動員して伊賀に平氏の残党を攻め九百人を討ち取りこれを鎮圧した。この事件で家次、家能、家助らは討たれたが、反乱の中心人物である信兼の子兼衡、信衡、兼時らは国外へ逃げ去った。

その後も伊勢、伊賀の平氏は勢力の挽回を企て反抗をくり返したが文治元年4月平氏の乱は平定された。

一方、伊賀平氏のなかにも源氏に味方して平氏討伐に馳せ参じた者が多く、弥兵衛尉宗清流で拓植村の住人拓植十郎有重は源行家に属して播磨で討死にしている。また服部郷の服部平太保行は御家人に取り立てられ、領地を与えられた。

服部・柘植氏はのち寺領荘園との悪党対捍を通して領主化への途を開こうとしたが、これを脱し切れずに一部の領主権を獲得する程度にとどまり、小豪として割拠した。その生態はきわめて流動的で国中に分散して在地土豪となった。これらの中世土豪も天下統一の機運が熟した戦国未期、天正9年(1581)織田信長の侵略にあい壊滅的な敗亡を喫して多くは討死し、あるいは国外に逃れたが、翌年明智光秀の謀反によって信長が自害、再ぴ政局の混乱が生じると、ひそかに故地に帰り、農に従った。だが、豊臣秀吉の農兵分離政策が進むなかで農兵的性格をもつこれらの土豪は完全に武器をすてて新しい体制へとくみ替えられていった。

天正13年(1585)豊臣政権のもとで近世初の封建領主となった筒井伊賀守定次は天正の兵乱で廃虚に帰した平楽寺、薬師寺の跡地に城郭を構えて伊賀を領治したが、慶長13年(1608)に改易、あとの領主となった藤堂和泉守高虎は移封まもなく故城を改修して城下町の建設に着手し、城下町に名望ある旧土豪層を移住させて町商人とした。また在郷の旧土豪を庄屋役、無足人層に編入した。

その頃、芭蕉の父松尾興左衛門は赤坂町に移住した。芭蕉が生まれた頃、藤堂藩は二代目藩主高次の治世であった。

藤堂藩の史学者川口庄太夫維言は桃井舎竹人と号して俳諧にも秀でた武士であリ『芭蕉翁全伝』を稿して、冒頭に「伊賀国柘植の郷日置山川の一族松尾氏也−父は興左衛門、母は伊予国の産、いがの国名張に来りてその家に嫁し二男四女を生ず、嫡子半左衛門命清、其次則翁也正保元甲申の年、此国上野の城東赤坂の街に生る−」と記述したとおリ、先祖は柘植郷の宗清流から出た平氏の一族で、服部松尾氏のながれが父の興左衛門と考えられる。



青年期



芭蕉は青年期を伊賀上野ですごし幼名を金作と称した。

承応頃(1652〜4)に藤堂藩伊賀付の侍大将藤堂新七郎家に仕え、当主良精の嗣子主計良忠とともに俳諧をたしなむ関係にあった。竹人の『全伝』には「愛寵頗る他に異なリ」とある。

新七郎家は多賀豊後守を出自にもつ藩祖高虎の一族で、近江在豪の頃より宗祗に連歌を学んだ文筆多才の名門、祖父良勝もまた武将俳諧に名をなした。良忠もまた蝉吟と号して貞門の俳諧を京の北村季吟に学ぷ文学青年であったので主従共々文芸の絆に結ばれていた。

芭蕉はその頃、松尾忠右衛門宗房と称していたので、俳号を宗房といい、地方俳壇に知られる存在となった。


蝉吟の死

寛文5年11月13日、蝉吟は季吟の脇句を得て、貞徳十三回忌追善百韻を興行した。一座の連衆は蝉吟を中心に上野町人窪田正好、保川一笑、松木一以らであり、芭蕉もまた宗房の名でこれに加わった。

ところが、翌年4月25日、蝉吟が僅か25才を一期として、花のこぼれちるなかになくなった。この主君の死は23才の多感な青年芭蕉の生涯に一転機を与える重大な年となった。

大きな衝撃をうけた芭蕉は悲しみに沈むなかで、去就に悩みぬいたすえで退身を決断したにちがいない。これには多くの物語が伝えられている。



貝おほひ






その後、6年間の空自をのこして、芭蕉の存在が鮮明になるのは、彼の処女作、三十番俳諧合『貝おほひ』の出現である。

この句合せは芭蕉をとりまく上野の俳友たち十名の句に自句を含めて左右に分けて勝負をつけそれに自身の判詞を加えた形式のものであります。

そして、その自序の末に「当所あまみつおん神の御やしろの手向ぐさとなしぬ寛文拾二年正月廿五日伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてミつから序す」と著名しています。

現在、生家の後庭に残された釣月軒は、その記念すべき文学遣跡であり、二十九才の青年芭蕉が、薄暗い部屋に端坐して、「貝おほひ」をかきあげている姿をまのあたりにみる思いがします。

今の世に、ただ一冊だけが現存するといわれる「貝おほひ」の刊本は、おそらく延宝初年に江戸の中野半兵衛から出版されたもので、所蔵者天理図書館わたや文庫が、はじめてそのことを紹介するにあたり、故杉浦正一郎氏の解説を付しています。

その叙述によれば、当時、芭蕉は驚くべきほどの鮮かな成長を示し、時代の息吹を敏感にうけとめて、当時の俳壇の最も前衛的な傾向を身につけた、新しいめざめに躍動する作品となっていると評されています。

これによってうかがい知ることは、芭蕉はこの以前六年間の空白時代に、新しいタイプの俳諧師となるために必要な素地を十分身につけたと考えられます。

故郷を出ず



  東京都深川の芭蕉庵跡
「貝おほひ」を上野の産土神に奉納した芭蕉は、この年の春、江戸に下ったものと考えられる。

しかし、江戸下りの年次は必ずしもこの年とは断定しがたい。ただ確実に東下したのが、延宝三年(一六七五)春以前であったことは事実である。

その前年芭蕉は「俳諧執心浅カラザルニ依テ」師の季吟から俳諧作法「埋木」の秘伝を与えられた。現在、芭蕉翁記念館に蔵する「埋木」の巻末に「延宝二年弥生中七季吟(花押)」の奥書がある。

芭蕉の江戸下りには小沢ト尺または向井ト宅が同道したと伝えられる。ト尺は江戸本舟町の名主で、季吟の門人。ト宅は藤堂藩の支城である伊勢久居の藩主藤堂任口の家臣でこれまた季吟の門に学ぶ知識人である。

江戸に着いた芭蕉がはじめに草鞋をぬいだのは杉山杉風の家とも、ト尺の所とも伝えられる。杉風はのち蕉門十哲につらなった江戸の鯉問屋で、幕府の御用商人を勤める富有な身分から、芭蕉のパトロンとして、芭蕉の新風開発の基礎を固め土台を築いた功労者であった。

深川六間堀の芭蕉庵は杉風が建てた庵である。


江戸の芭蕉

江戸に下った芭蕉の足取りは、伊賀在郷の時代に比べると、かなり記録や文献に恵まれるようになる。

そのことは、とりもなおさず芭蕉の存在が俳壇史の上に重要な位置を占めるようになったことを物語るものであるが、芭蕉自身にとって苦闘の時代でもあった。

あたかもその時、俳諧史は展開期に際会していた。大坂天満宮の連歌宗匠西山宗因も江戸に下った。

江戸俳壇にも宗因の影響がおよぴ、延宝3年(1675)5月、深川大徳院では宗因を歓迎する百韻が興行された。この百韻には宗房を桃青と改めた芭蕉も、幽山、信章などとともに一座に加わった。

その翌年、山日素堂と二人して興行した天満宮奉納二首韻で芭蕉は、宗因流の自由な放笑性に傾倒する輝連な句をもって素堂に唱和している。

ついで同5年、俳諧大名として知られる内藤風虎の催した「六百番俳諧発句合」に二十句を出句し、いよいよ芭蕉は江戸在来の俳壇を圧するばかりの出色した才能をここに現したのである。

その評判が江戸の地にひろがるにつれ、田態のマンネリズムに退屈していた俳人達は芭蕉を慕って集った。芭蕉にとって、ついに生涯のはかりごととなった宗臣9つ署立机の夢はようやく実を結ぴ、その披露の万句興行も行われた形跡がある、次いで翌6年には歳且帳も出したらしい。

しかし、生計のほうはあまり楽ではなかったらしく、芭蕉が江戸に出て神田水道の工事に従事していたというのは、この頃から延宝8年(1680)に至る約4ヶ年間のことと思われる。

一方「将軍さまのお膝元」といわれる政治都市江戸での生存競争は、田舎者の芭蕉にとって殊のほかきぴしいものであった。

そうした世情にもかかわらず、延宝8年(1680)4月、芭蕉が37才のときに刊行した「桃青門弟独吟二十歌仙」は、彼の宗匠としての確固たる地位を示すもので、杉風、ト尺、厳衆、一山、緑糸子、僊松、ト宅、自豚、杉化、木鶏、嵐蘭、楊水之、嵐亭(嵐雪)、螺舎(其角)、巌翁、嵐窓、嵐竹、北*、岡松、吟桃の各独吟二十歌仙一巻をおさめ、追加に館子の独吟歌仙一巻を添えたものである。

驚くべきことに、僅か数ヶ年の間に、芭蕉を中心にこれだけの俊才があつまり、俳壇の最先端に位置したのであった。

ついで、同じ 年の秋には其角の自句合「田舎句合」と杉風の自句合「常盤屋句合」に師匠の芭蕉が判詞を添えた姉妹編が続刊された。

このように芭蕉一門が活気を帯ぴてくると、「江戸の流れ者」として、とかく白眼視されてきた芭蕉であったが、つぎつざと世間を白己の世界へ誘いこむ新規な活躍ぶりをみて、人々はもはや芭蕉を軽視することができず江戸を代表する六名の宗匠の一人として、その存在を認めずにはいられなくなった。



荘子礼讃

そうして、「生き馬の目を抜く」とさえいわれる都会生活での人間関係はきぴしく、芭蕉の名声が高まれば高まるだけ、利害得失、名誉栄達を競う複雑な生存競争がうずまき、芭蕉の心を悩すことが多くなった。

やっと思い望む宗匠の座を獲得したとはいえ煩悶(はんもん)の情は尽きず、さまざまな懐疑を抱くようになった。その懐疑な芭蕉の心をめばえさせたのは、とりもなおさず古代中国の聖哲「荘子」の人生哲学であった。荘子は宇宙の根本原理から人間と人生の理想的な存在を説いている。

芭蕉もまた、この荘子に心を傾け「天に従うを道と謂う、道に従うを自然と講う矣」と自註する自然観照の念を至上としていたので、世間の人間葛藤や毀誉褒麗(きよほうへん)に嫌厭し宗匠稼業を捨て、深川の草庵に隠棲(いんせい)した。延宝8年(1680)冬のこと、芭蕉37才の時であった。

この草庵は杉風の生洲(いけす)屋敷だったといわれ、小名木川が隅田川に注ぐ川口に近い場所であった。芦荻のおい茂る愛閑の地は社甫(中国の詩人)の「門ニハ泊ス東呉万里ノ船」と詠んだ詩情に似ることから、名づけて泊船堂といい、傾く月光に風雅をおもい、詩聖のこころを慕いつづける生活を楽しんだ。

天和元年(1681)芭蕉の草庵に門人の李下が芭蕉一株を贈った。その生青がよくいつしか庵の名物になったので「芭蕉庵」とよばれていた。芭蕉自らも芭蕉庵桃青と号し、天和2年頃から正式に芭蕉の号を用いるようになった。

しかし、芭蕉はこの庵住で閑住するつもりはなかった。社甫、李自、蘇東波などの世俗を去って高雅な詩境に人生を送った文人達を慕い、権勢覇争をのがれて草庵に隠れた西行、宗祗らの中世詩人たちを、理想像にえがきながら、言葉の滑稽をもてあそんで、駄洒落(だじゃれ)の遊戯に生命を削る自分の姿がいかにむなしく無意味なものであるかとさえ疑いをもち草庵の近くの臨川寺に寄寓(きぐう)する仏頂禅師に就いて禅を学んだ。

そして得た禅的観照が彼の俳諧に新たな深みを加えるとともに「無能無芸にして只この一筋につながる」自己へのめざめを体得するに至った。

この頃芭蕉は談林の形式から脱皮しようとして、新しい風体を模索していた。その展開の軸をなすものは漢詩文調への指向であり、一種の新しいリズムを与えた。

  枯枝に鳥とまりたるや秋の暮
  雪の朝独り干鮭を噛得タリ
  佗テすめ月佗斎がなら茶歌
  氷苦く偃鼠が咽をうるはせり

などの句は、緊追したリズムのもつ悲愴感と、現実の俗から脱した高雅な詩境に自らの生活を観ずるものとなり、独得の詩趣をただよわせるものとなった。

とりわけ天和3年に出た其角の「虚栗(みなしぐり)」によせた芭蕉の跋文(あとがき)である。つまり、「李、杜が心酒を嘗て寒山が法粥を啜る・・・・・」にはじまる一節は漢詩的、禅的風韻と、当時の俳諧観をしめすこの時代の代表作品ということができる。





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