大垣市の歴史



地質時代

遠く2〜3.5億年もの大昔、赤坂金生山は地殻の変勒で海底から隆起し出来た。

古生代の海の生物たちが化石となって石灰岩の地層から姿をみせる。

市の北西部にある金生山は、至る所から古生代の化石が採集される。山は、秩父古生層の石灰岩から成り立っている。

山のふもとの赤坂町には、金生山化石館があり数百点の化石が展示されている。




原始・古代


創始から古代(縄文・弥生・古墳時代)を偲ぶ美濃文化発祥の地「青野ケ原」は市の西北部を占める。

古墳時代に幾多の王や豪族・貴族たちの墳墓が造営されて、大墓・王墓・青墓の地名が生まれた。

県下で最大の昼飯大塚古墳(前方後円墳)をはじめ、竪穴・横穴式円墳など大小数百に及ぶ密集・群集地帯(赤坂・昼飯・青墓・青野・矢道・榎戸・牧野・荒尾など)である。





飛鳥・白鳳・奈良時代


地方豪族や王など有力者の氏寺が営まれ、やがて美濃国分寺(官立)が建立され、大和朝廷の中央集権国家の拡大強化にともなう地方文化振興への大きな役割を果たしてきた。

写真の仏像は、美濃国分寺の木造薬師如来座像で国指定重要文化財である。




平安・鎌倉時代以後

けんらん華麗な平安時代の貴族文化が花開く時代から、武士が台頭しはじめ世に言う源平時代および鎌倉の武家政治となり、幕府が開かれていく。

地方支配の守護・地頭や荘園支配の貴族との絡み合いなど、あるいは複雑多岐にわたる社会構造の上に、南北朝・室町、戦国・安土桃山時代とそれぞれ独特の文化をはぐくんで時代は大きく変転してゆく。

そうした時代の激流に押し流されながら大垣地方の歴史もまた繰り返されてきた。

そして色々の史実や伝説で物語り、または芸術文化史を証する幾多の文化財が伝承されてきた。

写真は、源朝長の墓です。平治の乱(1159)に敗れ、この地に落ちのびた義朝ら主従のうち次男朝長は矢傷のため再起不能になり父義朝の手にかかり命を絶つ。


中世(15世紀中ごろ)奈良東大寺領であった「大井荘」の推移の中で、牛屋砦・東大寺城などの名とともに荘官大垣氏の名があらわれ、「大垣・大柿」という地名が浮かび上ってくる。

それ以来大垣は幾多の戦乱に巻き込まれながら幾変遷を繰り返してきた。

16世紀に至り大永・天文のころ斉藤、竹腰、宮川氏らなどが 大垣城 を築城。天下分け目の関ケ原合戦に一躍有名となった。

大垣城は、江戸時代に入って譜代大名の戸田氏の支配下で安定を迎えた。

写真は、戦国動乱期に活躍した稲葉一鉄の居城として知られる曽根城跡です。家老の娘春日の局は、その名をよく知られNHKの大河ドラマにもなりました。



江戸時代以後


寛永12年(1635)以来、戸田氏の11代続いた大垣10万石の城下町として発展してきたのは、すでに周知のところである。

中でも特に元禄忠臣蔵物語の赤穂藩主浅野長矩と大垣藩主4代戸田氏定の従兄弟にまつわる大石良雄との関係、或は芭蕉との因縁をはじめ、幕末から明治へかけての時代背景に、幾多の人材が育っては活躍してきた。

写真は、大垣藩校跡の碑です。「史跡大垣藩校敬教堂跡」という碑と孔子の石像が建っている。天保11年(1840)大垣藩主が藩が直接運営する学問所を設立する。これが現在の大垣市立興文小学校の始めでもある。




明治・大正・昭和時代



学者の町・博士の町といわれ、教育文化関係の人材が輩出した。

文教都市大垣の花開く時期でもあった明治時代以後は、急速に近代化への道をたどる。

やがて工業都市として発展し、ついに大正7年(1918)市制をしいた。

その後次第に軍国主義の靴音が高くなり第2次世界大戦に巻き込まれたが、昭和20年8月に終戦。
すでに戦後も50年を越え、大きな変動をくぐり抜けて、ようやく今日の発展をみることができた。




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